スリランカにおけるモダン・アートの最初の最も重要な動きは、写真家ライオネル・ウェント(1900~44年)の作品や、ジョージ・キート(1901~93年)、ジャスティン・デラニヤガラ(1903~67年)、ジェフリー・ベリング(1907~92年)の絵画によって、1920年代後半から1930年代前半にかけて勢いを増し始め、彼らは後にスリランカで最も重要なモダン・アーティストの集団である〈43年グループ〉の中核を形成した。このグループには、イワン・ピーリス(1921~88年)、ジョージ・クラッセン(1909~99年)、リチャード・ガブリエル(1924~2016年)、その他数名の力強い個性を発揮した美術家たちが参加した。(Weereratne 1993; cp. 2000, Keyt 2001, Bandaranayake and Fonseka 1996も参照)。
現在、スリランカには、芸術教育に特化した「美術公演芸術大学」がある。この大学の歴史は19世紀後半まで遡る。この大学はスリランカの英国統治時代に政府立専門学校の一部門として誕生したため、その設立当初から、当時の英国の美術学校のアカデミックな写実主義に従った作品制作や美学が教えられた[4]。20世紀初頭、この美術大学と関わりのあった重要な美術家たちは、デイヴィッド・ペインター(1900~75年)やJ. D. A. ペレラ(1897~1967年)といったアカデミックな写実の画家たちであった。そのために、政府立美術学校は、〈43年グループ〉の芸術家たちの手によってスリランカの美術界で地位を確立しつつあったモダニズム美術は受け入れなかった。政府立美術学校のアカデミックな写実主義美術の伝統をモダンに変えるには、スタンリー・アベイシンゲ(1914~95年)のような旺盛な創造力と先鋭的な個性を備えたユニークな人物が必要だった。アベイシンゲは、1940年代から1950年代にかけて〈43年グループ〉が切り開いた急進的で革新的な美術の業績を制度化した。
スリランカのモダニズム美術の伝統は、主に画家が担っており、彫刻家はあまりいなかった。スリランカで最初に重要なモダニズム彫刻家となったのは、ティッサ・ラナシンハ(1925~2019年年)である。彼は、1960年代以降、モダニズム彫刻をスリランカ/南アジアの経験と結びつけて語りなおしてきた。ラナシンハの具象彫刻は、〈43年グループ〉の絵画思想を立体的に表現したものといえる。彼の影響は、現代のスリランカ彫刻に今も見ることができる。ラナシンハ以降、モダニズム傾向で活躍する具象彫刻家で、彼の思想と革新的な手法を超える者はほとんどいない。例外はマヒンダ・ウィジェセケラであり、彼はモダニズム彫刻に叙情的な次元を加えることで、ラナシンハが達成したものをさらに豊かにした。モダニズム彫刻の次に重要な発展は、抽象絵画でも評価を確立したH. A. カルナラトネの非具象的な作品に見られる。
1970年代 抽象芸術の制度化
以上のような1940年代や1950年代と比べると、1960年代末から1980年代末にかけての20年間は、美術の動きは比較的少なかった。例外は、絵画の手法や様式が重要な展開を示し、それが長く定着したことである。1960年代までのスリランカの近代絵画は、ポスト印象派、フォーヴィスム、キュビスムやこれらに似た傾向など、ヨーロッパの主要な流派から得たインスピレーションによって発展した具象的な作品がほとんどであった。例外は〈43年グループ〉のジョージ・クレッセンであり、彼は抽象と具象の両方で制作した。この状況は、1960年代に画家であり美術教師でもあったH. A. カルナラトネ(1929年~)の作品や思想、教育の影響により、スリランカの現代美術に非具象的な絵画の伝統が取り入れられることで変わり始めた。言い換えれば、スリランカ絵画の制作ではニューヨーク派こそが優れているという考えを確立したのがH. A. カルナラトネだった。
しかし、1970年代後半から1980年代初頭にかけては、2人のアーティストの作品に、不快感、フラストレーション、暴力の記憶が現れていた。ナヤナナダ・ヴィジャヤクラティラケ(1947年~)とS. H. サラット(1948年~)である。この2人のうち、ヴィジャヤクラティラケは自らも反乱分子であり、その結果、獄中生活を送った。彼の芸術は、獄中での時間と、武装隊に対する怒りを記録したものである。サラットは、その素描作品で、権力者の様々な側面を風刺的に扱い、人権侵害の責任を感じる一方で消費資本主義の無批判な受容を問題とした。しかしこの2人の作家の作品は、高度にモダニズム的な美術の言説の中で制作されたため、制作に新たな次元を与えることはできず、社会に介入して問題提起をする二人の制作態度は「抗議としての芸術 」の狭い範囲にとどまっていた。
1996 Ivan Peries Paintings, 1938–88. Colombo: Tamarind Publications.
n.d. Sri Lankan Painting in the Twentieth Century. Unpublished manuscript.
George Keyt
2001 George Keyt. A Centennial Anthology. Colombo: The George Keyt Foundation.
Kapur, Geeta
2000 “When Was Modernism in Indian Art,” In: When was Modernism. Essays on Contemporary Cultural Practice in India (New Dehli: Tulika Press), 297–324.
Sinha, Gayatri (ed.)
2003 Indian art: An Overview. New Delhi: Rupa & Co.
Weerasinghe, Jagath
1998 No Glory, Sarath Kumarasiri, Recent Works at Heritage Gallery [18–36 April 1998]. Colombo.
2000 Introduction to catalogue. In: Made in IAS: An Exhibition of Paintings, Sculpture and Installation Works by 16 Artists from the Institute of Aesthetic Studies of the University of Kelaniya, Gallery 706, Colombo, 11–20 July 2000 (Colombo: IAS), 3–5.
2002 “The Moments of Impact: The Art of the ’90s Trend in Sri Lanka,” In: Pooja Sood (ed), KHOJ 2001 International Artists’ Workshop (New Delhi: KHOJ International Artists’ Association), 85–88.
2005 “Contemporary Art in Sri Lanka,” In: Caroline Turner (ed.), Art and Social Change (Canberra: Pandanus Books), 180–193.
Weereratne, Neville
1993 43 Group. A Chronicle of Fifty Years in the Art of Sri Lanka. Melbourne: Lantana Publishing.
Wendt, Lionel
2000 Lionel Wendt. A Centennial Tribute. Colombo: The Lionel Wendt Memorial Fund.
[3] S. W. R. D. バンダラナイケ(1899~1959)は〈スリランカ自由党〉の創設指導者で、1956年にスリランカの首相となった。オックスフォード大学を卒業し、貴族の家柄を持つこの紳士は、シンハラ系仏教徒である農村の大衆の間で勢いを集めることができる、辛辣なナショナリズムに基づいて政治運動を開始した。
20世紀スリランカ美術における
様々なモダニズム概観
スリランカにおけるモダニズム それは何だったのか?[1]
ジャガト・ウィーラシンハ(美術家)
黒田雷児訳
出典 An overview of modernisms in Sri Lankan art of the twentieth century
Sylvia S. Kasprycki and Doris I. Stambaru ed., Artful Resistance: Contemporary Art from Sri Lanka (Alternstadt: ZKF Publishers, 2010).
かつて植民地であったスリランカという地域の21世紀という視点から、「モダニズム」とは何だったのかという問いに、自身の社会的存在やアイデンティティの問題がこの用語の既存の定義とどのように関連するのか考えて答えるのは、きわめてむずかしい。苦心してそのような調査をしてもそこから浮かび上がってくるイメージは、はっきりしないものであり、これもまた厄介な問題になる。しかし、その問題がどれほど厄介であっても、スリランカという社会で、20世紀に制作され、「モダン」とレッテルを貼られた芸術を「理解」、あるいは「読解」しようとするとき、この問題を避けて通ることはできない。スリランカのような国々における20世紀のモダニズム芸術について書くには、近代化とナショナリズムの緊張に満ちた関係を定義する必要がある。そのためには、「政治的」という語を最大限拡大することにより、19世紀末から20世紀初頭にかけて文化の創り手がとった「政治的行動」のうち、性質上モダニズムとみなすことのできるあらゆる形態を探求しなければならない。過去からのこのような発見は、私たち自身の歴史的経験との関連において「近代」という時代区分を考えなおすことに役立つだろう。近年、多くの南アジアの研究者が、この非常に複雑な問題を検討するために、かなりの創造的・批判的エネルギーを費やしてきている(Kapur 2000、Sinha 2003など[文末文献一覧参照])。
南アジアで美術のモダニズムがいつ始まったかは、今も議論が続いてる。インドでは、モダニズムの始まりがラージャー・ラヴィ・ヴァルマー(1848~1906年)とアムリタ・シェル=ギル(1913~41年)の間で議論が揺れ動いている(Sinha 2003: 1)。その一方、スリランカでは、一般的に1943年に結成された〈43年グループ〉の美術家たちによって始まったとされている。モダニズム美術に内在する特徴のひとつは、精神においては常に国際的であり、自分たちと異なる文化や伝統からとられた視覚的モチーフを取り入れたり援用しようとすることである[2]。植民地政治とその結果生じる緊張を考慮すると、異国のモチーフや手法を摂取・援用して自分の芸術制作に取り入れる行為の意味と機能は、必然的に、文化の創り手と彼らが属する社会特有の社会的・政治的不安に立ち向かい、それを鎮圧することを意味した。
この国際性という基準を念頭に置いて、それが近代性を決定するものとして南アジアを捉えるとき、前近代から近代への重要な橋渡し役を果たした多くの「原モダン」な南アジアの美術家を見い出すことができる。インドでは、ラージャー・ラヴィ・ヴァルマーやカーリガート絵画の伝統を受け継ぐ美術家たち(1820年代~1930年代頃)が最初の前モダニストとなった。一方、スリランカでは、19世紀後半から20世紀初頭にかけての壁画作家デヒヴァラのスリ・スボダラマヤ、ボタレ・ラジャマハ・ヴィハライ、そしてよく知られた仏教壁画家マーリガーワゲー・サーリスたちが、初期あるいは原モダニストといえる。これらの原モダニストの明らかな特徴のひとつは、内容においては伝統的な主題を守り続けたことであり、かつその主題を、外国の題材、視覚による隠喩、技法から情報を得たり影響を受けた絵画的構造の中で表現したことである。
1940年代
芸術における真に近代的な「モダニズム」、43年グループ
スリランカにおけるモダン・アートの最初の最も重要な動きは、写真家ライオネル・ウェント(1900~44年)の作品や、ジョージ・キート(1901~93年)、ジャスティン・デラニヤガラ(1903~67年)、ジェフリー・ベリング(1907~92年)の絵画によって、1920年代後半から1930年代前半にかけて勢いを増し始め、彼らは後にスリランカで最も重要なモダン・アーティストの集団である〈43年グループ〉の中核を形成した。このグループには、イワン・ピーリス(1921~88年)、ジョージ・クラッセン(1909~99年)、リチャード・ガブリエル(1924~2016年)、その他数名の力強い個性を発揮した美術家たちが参加した。(Weereratne 1993; cp. 2000, Keyt 2001, Bandaranayake and Fonseka 1996も参照)。
20世紀半ばのスリランカにおいて、王立アカデミーやその他の英国美術学校の影響を受けたアカデミックな写実主義やオリエンタリズムに対して、エコール・ド・パリを趣味のよさを示す基準としたのは〈43年グループ〉であった(Bandaranayake n.d.: 3-5)。このように、〈43年グループ〉の結成は、20世紀半ばに南アジアで勢いを増した、イギリス植民地支配者からの政治的独立を回復するための民族闘争という大きな流れの中で、反植民地的な姿勢を形成したプロジェクトとみなすことができる(Weerasinghe 2000: 5)。〈43年グループ〉の最も重要な功績は、19世紀末から20世紀初頭にかけてフランスで隆盛したモダニズムの傾向や美術的な手法を多数とり入れて、それらを変容させる試みに成功したことだといえる。〈43年グループ〉のメンバーのなかでスリランカのモダニストとして最も有名なのがジョージ・キートであり、彼は「キュビスム風」の視覚言語に基づくモダニズムの語法と、東洋的な画題、モチーフ、雰囲気を結びつけた。キートが〈43年グループ〉での「東洋的預言者」であるなら、ジャスティン・デラニヤガラとイワン・ピーリスはこのグループでの表現主義的傾向の両極だった。デラニヤガラの絵で強烈かつ複雑に描かれる心理状態は、人間の状況の悲劇やアイロニーを掘り下げて明らかにするものであり、イワン・ピーリスの象徴的・瞑想的な風景はその逆の極度の静謐さや哀感を暗示するのである。
1950年代 ナショナリズムとモダニズム
〈43年グループ〉の結成と並行して、20世紀半ばのスリランカのアートシーンでは、他にも活発な動きがあった。西洋の影響に毒されていない「純粋な」スリランカ/アジアの芸術形式を求める、芸術における極右ナショナリストの言説は、美術界での二つの大きな勢力のひとつであった。この傾向は、S.W.R.D.バンダラナイケのナショナリズム政策の文化的・芸術的表現とみなすことができる[3]。美術界におけるもうひとつの重要な存在は、ロビンドラナト・タクル(ラビンドラナート・タゴール)が創設したシャンティニケータンの美術学校の影響を受けた美術傾向であり、これは 「国民性」と 「近代性」という概念について、より広範な意味を表していた。しかし、これら2つの傾向の代表者たちが、いかに純粋にスリランカの芸術的言説を形成しようと試みたとしても、美術家としての彼らの存在と作品は、必然的にモダニズムであり西洋的なものであるという基本的な限界があった。彼らは必然的に、西欧の植民地権力によって導入され・育てられ・管理された、政治と社会と教育のシステムの産物であった。そうであっても、彼らもまた、〈43年グループ〉には作品のうえでは対立しながら、〈43年グループ〉の芸術家たちと同様に、あらゆる意味で非常に個人主義的な美術家であった。
1950年代のナショナリストの言説から生まれた潮流の大半は忘れ去られてしまったが、現在も活発に続いているものがある。それは、詩の挿絵や詩的雰囲気として絵を見る姿勢である。それを実践するのほとんどが詩人であった。この流れをくむ最も初期の画家はアナンダ・サマルクーン(1911~62年)で、1960~1970年代にかけてマハガマ・セケラ(1929~76年)の手によって新たな息吹が吹き込まれた。マハガマ・セケラは、政府立美術学校(現・美術公演芸術大学)で美術家として教育を受けていたが、画家としてよりすぐれた詩人として知られている。彼の描く絵は、極めて叙情的な表現の詩に添えられた。現在、この傾向は、全国紙に詩画を発表し続けるチャンパニ・デヴィカ(1961年~)の詩画にも受け継がれている。
1960年代 モダニズム芸術の制度化
現在、スリランカには、芸術教育に特化した「美術公演芸術大学」がある。この大学の歴史は19世紀後半まで遡る。この大学はスリランカの英国統治時代に政府立専門学校の一部門として誕生したため、その設立当初から、当時の英国の美術学校のアカデミックな写実主義に従った作品制作や美学が教えられた[4]。20世紀初頭、この美術大学と関わりのあった重要な美術家たちは、デイヴィッド・ペインター(1900~75年)やJ. D. A. ペレラ(1897~1967年)といったアカデミックな写実の画家たちであった。そのために、政府立美術学校は、〈43年グループ〉の芸術家たちの手によってスリランカの美術界で地位を確立しつつあったモダニズム美術は受け入れなかった。政府立美術学校のアカデミックな写実主義美術の伝統をモダンに変えるには、スタンリー・アベイシンゲ(1914~95年)のような旺盛な創造力と先鋭的な個性を備えたユニークな人物が必要だった。アベイシンゲは、1940年代から1950年代にかけて〈43年グループ〉が切り開いた急進的で革新的な美術の業績を制度化した。
美術学校の内外でモダニズムの伝統が勝利したことで、芸術の基本的なモダニズム言語が、スリランカで美術制作を行うための「道筋」となったといえる。それ以来、モダニズム芸術の語彙によって、多様で相反する気質を持つ個性的な美術家が登場するようになり、彼らは様々な方法でモダニズム美術界を豊かにしてきた。
スリランカのモダニズム美術の伝統は、主に画家が担っており、彫刻家はあまりいなかった。スリランカで最初に重要なモダニズム彫刻家となったのは、ティッサ・ラナシンハ(1925~2019年年)である。彼は、1960年代以降、モダニズム彫刻をスリランカ/南アジアの経験と結びつけて語りなおしてきた。ラナシンハの具象彫刻は、〈43年グループ〉の絵画思想を立体的に表現したものといえる。彼の影響は、現代のスリランカ彫刻に今も見ることができる。ラナシンハ以降、モダニズム傾向で活躍する具象彫刻家で、彼の思想と革新的な手法を超える者はほとんどいない。例外はマヒンダ・ウィジェセケラであり、彼はモダニズム彫刻に叙情的な次元を加えることで、ラナシンハが達成したものをさらに豊かにした。モダニズム彫刻の次に重要な発展は、抽象絵画でも評価を確立したH. A. カルナラトネの非具象的な作品に見られる。
1970年代 抽象芸術の制度化
以上のような1940年代や1950年代と比べると、1960年代末から1980年代末にかけての20年間は、美術の動きは比較的少なかった。例外は、絵画の手法や様式が重要な展開を示し、それが長く定着したことである。1960年代までのスリランカの近代絵画は、ポスト印象派、フォーヴィスム、キュビスムやこれらに似た傾向など、ヨーロッパの主要な流派から得たインスピレーションによって発展した具象的な作品がほとんどであった。例外は〈43年グループ〉のジョージ・クレッセンであり、彼は抽象と具象の両方で制作した。この状況は、1960年代に画家であり美術教師でもあったH. A. カルナラトネ(1929年~)の作品や思想、教育の影響により、スリランカの現代美術に非具象的な絵画の伝統が取り入れられることで変わり始めた。言い換えれば、スリランカ絵画の制作ではニューヨーク派こそが優れているという考えを確立したのがH. A. カルナラトネだった。
カルナラトネは、1960年代にニューヨークと東京(訳注)で美術を学んだ後、ケラニヤ大学美学研究所(IAS、現・美術公演芸術大学)絵画の講師を務めた。この大学は、学位レベルの教育を提供する国内唯一の美術機関である。IASで高く評価された教師であったカルナラトネは、抽象や抽象表現主義の思想で作品を制作するよう、若い世代のアーティストたちを導く特権的な立場にあった。
(訳注)カルナラトネは1959~61年に日本政府の奨学金により東京芸術大学研究生として美術を学び、1965~66年にフルブライト基金によりニューヨークのプラット・インスティテュートで版画を学んだ。
1980年代 楽園の危機
1971年、イギリスからの政治的独立を回復して以来スリランカでは初めての武装蜂起が起こった。マルクス主義を志向する政党である人民解放戦線(JVP)が主導したもので、その構成員は主に島南部地域のシンハラ人仏教徒である農村部の若者たちであった。この蜂起は、長い間見捨てられてきた農村の若者の苦しみと不満から生まれたものであり、その結果起こった残虐な行為は、スリランカに血なまぐさい数十年が続くことを予告した。この1971年の反乱と、やはりシンハラ人仏教徒たちを主とする政府軍とJVPとの戦闘による残虐行為は、党派政治によって暴力を許容し正当化する、シンハラ人仏教徒の南部社会の潜在力を見せつけた。それによってスリランカ南部社会の自己破壊的な危険が露呈したのである。農村の若者たちが反乱の間に経験しなければならなかった暴力事件や苦しみ、そしてその結果として表面化した社会政治的・道徳的な問題は、主流の美術活動には影響しなかった。なぜなら、既存の制度での美術教育では、作品制作とは精神的次元や崇高な真理を探求するものだという思想に凝り固まっていたからである。
しかし、1970年代後半から1980年代初頭にかけては、2人のアーティストの作品に、不快感、フラストレーション、暴力の記憶が現れていた。ナヤナナダ・ヴィジャヤクラティラケ(1947年~)とS. H. サラット(1948年~)である。この2人のうち、ヴィジャヤクラティラケは自らも反乱分子であり、その結果、獄中生活を送った。彼の芸術は、獄中での時間と、武装隊に対する怒りを記録したものである。サラットは、その素描作品で、権力者の様々な側面を風刺的に扱い、人権侵害の責任を感じる一方で消費資本主義の無批判な受容を問題とした。しかしこの2人の作家の作品は、高度にモダニズム的な美術の言説の中で制作されたため、制作に新たな次元を与えることはできず、社会に介入して問題提起をする二人の制作態度は「抗議としての芸術 」の狭い範囲にとどまっていた。
1990年代 多元主義と 「擬似モダニズム」
1990年代の10年間は、スリランカのモダニズム美術にとって極めて創造的な時期であった。この時期、スリランカの美術は盛期モダニズムの限界を超え、ポスト・モダニズム、あるいは後期モダニズムによる批評性をもつ段階に入った[5]。
美術に関するさまざまな新しい思想や概念、美術的探求のためのテーマ、そして特に政治的な見解をもつ個人としての美術家という考えを理解した、まったく新しい世代の美術家たちが、スリランカのアートシーンを支配するようになった。この芸術的才能の爆発を見れば明らかなのは、新世代のアーティストたちが、スリランカにおける美術制作に関するほとんどすべての既成の考え方や思想に対して、理論的な攻撃を仕掛けているということだ。また、ここで注目すべきは、この強力な運動の推進者のほとんどが、農村や故郷の町の非常に混乱した社会的・政治的環境の中で10代を過ごすことを余儀なくされた若い男女たちであるということだ。この過激に新しい、しかし才気に満ちた若者たちは、「身体」と「生活」を作品制作の核心におくことで、田舎の習慣で作られた意識によって既存の作品の評価基準を攻撃したのである。つまり、スリランカの「田舎町」が、大都会コロンボの美術界に衝撃を与えたのだ。
ある意味で、1990年代に登場した美術家たちの作品の多くは、自分たちを、一方では暴力、土地収奪、絶望の記憶を抱えながら生きる人々の集団として、他方では都市文化の魅惑的で奇妙な美しさと現実逃避の犠牲者であるかのように表現している。同時に、彼らの芸術活動を支える原動力は、社会の中で抑圧され、疎外された立場にある彼らの自己実現を、絶望を乗り越え、最近まで「望まれなかった」社会の中で生計を立てることを可能にする推進力に変える闘いである、と私は主張したい。彼らは作品の構成において、社会政治的荒廃や都市の誤った印象や妄想から生じるフラストレーション・絶望・疎外感を、社会の中で充足し認められるようになるための目的や手法へと変換してきたのである。
1990年代の美術の重要な特徴は、美術を「今」「ここ」の表現として、美術と作品制作プロセスを現代的であることの表現として定義しようとする意識的な努力である。現代美術家の大半は、自分自身とその創造的エネルギーを、遠い過去に位置付けることはあまりなく、必ず「現在の文化的時点」とその即時性の中に位置づけようとする芸術的努力を信奉することで共通している。この「現在の文化的時点」に身を置く必要性は、意識的にせよ無意識的にせよ、ほとんどの現代の美術家が共通して抱いている考えを示している。それは、神学的で文化横断的な意味で普遍的でありたいという願いの現れである形而上学的な物語の拒否である(Weerasinghe 1998)。言い換えれば、この立場は、芸術作品が客観的な自己存在を持つ閉ざされた実体であるという、公認された信念を否定するものである。
このような美術家の姿勢は、ふたつの歴史的な拘束からの解放を意味する。ひとつは、20世紀初頭から半ばにかけての反植民地な国家建設プロジェクトの中で「純粋にスリランカ的」であるとされた伝統からの解放であり、もうひとつは、「自己」や「魂」とは非政治的なもので、芸術とはそのような「自己」や「魂」の表現であるというだまされやすい概念からの解放である。これらの新しいイデオロギー的立場は、暴力や欲求不満からくる感情や衝撃、消費社会の緊張や受難、都市や農村の中産階級の物質的/肉体的また視覚的状況を、高級芸術や現代の豊かな社会の領域に持ち込むことができるような、芸術的手法や戦略の形式の中で定式化されてきた。1990年代の芸術は、問題提起型の芸術であり、社会全体の「生きている現実」に直接関与する問題への取り組みである。
2000年代
新たな方向性 遊び心と手作りの現実の批判
1990年代のアートが 「皮肉による批評」によって存在感を示したとすれば、21世紀最初の10年間は 「遊び心による批評」のほうに関わっている。
21世紀初頭の革新的な美術動向は、ふたつの重要な側面によって特徴づけられる。ひとつは、大衆文化、消費主義、伝統に対する感性の高まりを表現し、もうひとつは、工芸品を作るように芸術を作ろうとする強い傾向である。「ハンドメイド(手作り)」という考え方は、スリランカの現代美術の実践において強い存在感を示している。若い現代美術家の中には、作品を制作することが、視覚的な喜びや好奇心、驚きに包まれた「美術オブジェ」(「美術作品」の反対)を生み出すプロセスになっている者もいる。こうして生み出された「オブジェ」は、視覚的な喜びを与えることができる一方で、個人や現代スリランカ社会全体に関わる重要な問題を、鑑賞者に提起し、直面させるのである。
結論
以上の議論からわかるように、1990年代以降にスリランカで発展した美術動向は、複雑で幅広い選択肢を提供している。1990年代には、非社会的で寡黙、現実離れした盛期モダニズムの立場から、社会的に関与し、政治を意識した批評性のある手法への動きがあった。今日見られるように、この動きは、美術の作り方や語り方に完全な変化をもたらした。理論的基礎、進化の歴史、そして現在の美術活動の暗示的あるいは明示的な概念化は、モダニズムやポスト・モダニズムといったカテゴリーで説明することを拒んでいる。単純に「ポスト・トラディショナル(伝統の次)」と言ってしまえば無難だが、この特徴付けも誤解を招く——その裏には、伝統や、失われた理想や、過去のルーツへの憧れがしばしば見られるからだ。その様式は、表面的には欧米のモダニズムと共通するものがある。それと同時に、現在の美術作品の多くが依拠する批評的な姿勢は、ポストモダンのオーラを放っている。コロンボの街角で牛車とコンピュータのマイクロチップがせめぎ合うように——テクノロジーの歴史がひっくりかえるポスト植民地的で非歴史的な空間では——ポスト・トラディショナルで擬似モダンの美術活動は、明るく、確信的に、暴力的に、そして悲劇的な皮肉とともに、この混乱した状況に取り組んでいるのだ。
引用文献
Bandaranayake, Senake
1996 Ivan Peries Paintings, 1938–88. Colombo: Tamarind Publications.
n.d. Sri Lankan Painting in the Twentieth Century. Unpublished manuscript.
George Keyt
2001 George Keyt. A Centennial Anthology. Colombo: The George Keyt Foundation.
Kapur, Geeta
2000 “When Was Modernism in Indian Art,” In: When was Modernism. Essays on Contemporary Cultural Practice in India (New Dehli: Tulika Press), 297–324.
Sinha, Gayatri (ed.)
2003 Indian art: An Overview. New Delhi: Rupa & Co.
Weerasinghe, Jagath
1998 No Glory, Sarath Kumarasiri, Recent Works at Heritage Gallery [18–36 April 1998]. Colombo.
2000 Introduction to catalogue. In: Made in IAS: An Exhibition of Paintings, Sculpture and Installation Works by 16 Artists from the Institute of Aesthetic Studies of the University of Kelaniya, Gallery 706, Colombo, 11–20 July 2000 (Colombo: IAS), 3–5.
2002 “The Moments of Impact: The Art of the ’90s Trend in Sri Lanka,” In: Pooja Sood (ed), KHOJ 2001 International Artists’ Workshop (New Delhi: KHOJ International Artists’ Association), 85–88.
2005 “Contemporary Art in Sri Lanka,” In: Caroline Turner (ed.), Art and Social Change (Canberra: Pandanus Books), 180–193.
Weereratne, Neville
1993 43 Group. A Chronicle of Fifty Years in the Art of Sri Lanka. Melbourne: Lantana Publishing.
Wendt, Lionel
2000 Lionel Wendt. A Centennial Tribute. Colombo: The Lionel Wendt Memorial Fund.
[1] このエッセイは、同じテーマに関する私の過去のエッセイ3本(Weerasinghe 2000、2002、2005参照)から多くを引用している。
[2] 19世紀後半から20世紀初頭にかけての西洋のモダニズム美術には、ある伝統に属する美術家たちが、西洋の植民地拡大の結果として直面することになった別の伝統から、シンボル、手法、モチーフを取り入れたり、流用したりする例が数多く見られる。これらの流用は、本質的には、反抗的な政治思想・行動の表れであった。印象派による日本のデザイン素材や視点の流用、ゴーギャンによるタヒチのイメージとの関わり、マティスやピカソのような芸術家がアフリカ美術から得たインスピレーションや影響は、その一例に過ぎない。
[3] S. W. R. D. バンダラナイケ(1899~1959)は〈スリランカ自由党〉の創設指導者で、1956年にスリランカの首相となった。オックスフォード大学を卒業し、貴族の家柄を持つこの紳士は、シンハラ系仏教徒である農村の大衆の間で勢いを集めることができる、辛辣なナショナリズムに基づいて政治運動を開始した。
[4] 国立専門学校の美術部門は、後に国立芸術大学に格上げされた。1970年代後半には大学制度に加盟し、美学研究所の称号が与えられた。
[5] 1990年代のスリランカにおけるモダニズム美術の変化を促したのは、ジャガト・ウィーラシンハhttps://jmapps.ne.jp/faam/det.html?data_id=3471の作品と教育であったと考えられている。1992年に開催された彼の展覧会「不安」は、モダニズムの言説の中で、それまで未開拓だった物語の可能性を示すことにより、スリランカ美術に決定的な新空間を開いたと今では考えられている。ウィーラシンハはこの事業で、一人ではなく他の3人の重要なスリランカ人アーティスト(チャンドラグプタ・テヌワラ、キングスレー・グナティリャケ、アノリ・ペレラ)とともに活動していた。テヌワラのバレリズム(訳注)作品は、日常的なありふれた物体を美術の領域へと移し替え、アノリ・ペレラの作品は、ウィーラシンハの作品とともに、強力なフェミニズム批評性に基づいて構築され、スリランカ美術を盛期モダニズムの限界を超えて新たな境地へと押し上げた。
(訳注)南部のタミール人と多数派のシンハラ人の抗争のために町の中でバリケードとして使われたドラム缶を用いた作品。第1回福岡アジア美術トリエンナーレ1999図録の作家解説(272頁)および岡アジア美術館所蔵《ドラム缶時代の女たち》(1998年)参照。