地域概要

中国 China

20世紀の中国美術

歴史を知れば「いま」が見えてくる

 

ラワンチャイクン寿子

(元福岡アジア美術館学芸員、

現福岡市美術館学芸員)

 

初出=『美術手帖』887号(2006年10月号)

 

中国の現代美術が国際的なブームになっていくのは、1990年代中頃からである。まず、1989年の天安門事件前後に海外に移住したホアン・ヨンピン(黄永砅)シュー・ピン(徐冰)ツァイ・グオチアン(蔡國強)、チェン・ゼン(陳箴)らが、中国文明に依拠しつつ現代的な手法で作品を発表したことが一部の関係者の関心を引いた。そして、1993年「ポスト八九中国新芸術展」(香港)とヴェネツィア・ビエンナーレ参加、1994~96年に発行された3冊の『紅旗』(通称、黒皮書・白皮書・灰皮書)によって、短期間に成熟した先鋭な美術の実態やアーティストの置かれた社会状況が海外に伝えられ、外の目が中国の内側へ向けられるようになっている。

 

もちろん、国際政治の場での中国の発言力の増大や、12億人(編注 2006年時点)の巨大市場に支えられた急速な経済成長が状況を後押ししたことはいうまでもない。こうして1990年代後半以降、中国の同時代の現代美術が海外で頻繁に紹介されるようになった。さらに改革開放後、展覧会を介して海外に紹介される殷・周時代の青銅器、秦の兵馬俑、唐の三彩やシルクロードの文物、宋・元・明の磁器や書画、清朝の華麗な宮廷文化など、アジアでも突出した文明を中国が有することも、海外において中国現代美術をアジアの代表として取り上げる背景、理由となっている。

 

しかし、現在の美術の立脚点となる近代美術から初期の現代美術については、展覧会でも出版物でも紹介されることが相対的に少なく、中国でもそれに近い状況である。そこで、ここでは辛亥革命(1911年)によって中華民国が建国されてから現在(編注 2006年時点)のブームに至る、1990年代前半までの通史を、各時代の特色を映すジャンルまたは運動やグループでおおまかにたどろう。

 

 

清朝末~文革時代 近代化から社会主義リアリズムへ

 

近代美術の下地はすでに清時代につくられている。18~19世紀にいち早く開港した広東(現・広州市)や上海がその拠点で、西洋絵画の技法と材料で中国の主題を描いた輸出用絵画(チャイナ・トレード・ペインティング)やキリスト教絵画が制作され、20世紀の広東と上海は多くの近代美術のパイオニアを輩出、とくに上海はその舞台になった。「上海ビエンナーレ」(1996年~)と「広州トリエンナーレ」(2002年~)が開催されるようになったのも、こうした歴史的由縁からである。

 

近代の美術教育制度や展覧会制度の確立は中華民国になってからである。1912年に初の美術学校、上海図画美術院(のちの上海美術専科学校)が開設され、本格的な近代美術教育が導入された。また1918年には初の国立の北京美術専門学校が開校。1929年には「全国美術展覧会」が上海で始まった。シュー・ベイホン(徐悲鴻)とリウ・ハイスー(劉海粟)をはじめ、欧米や日本に留学して西洋近代美術を学んだ美術家たちは、これらの美術制度を整えていく一方で、中国の人物、風景、静物、歴史的主題を西洋の印象主義やポスト印象主義を摂取した様式で表現し、中国独自の近代美術の創出を目指した。また1930年代には、〈決瀾社〉(31年に結成)や〈中華独立美術協会〉(34年結成)が西洋モダニズムを紹介、それは1980年代の八五美術運動で再び追求されることになる。さらに、1930年代には魯迅が「木刻運動」を主導し、都市では巷で資本主義社会を象徴する商業ポスターが大流行してもいる。まさに百花斉放の美術状況が上海などの近代都市に現れ、国内のみならずマレー半島の華人社会にまで広がる勢いを見せたが、1937年に始まった日中戦争がこの勢いを阻み、近代美術の一時代は終わった。

 

1949年に中華人民共和国が建国されると、体制は社会主義へ180度転回する。この時代の美術は、社会主義国家建設の要請に基づく「社会主義リアリズム」の主題と様式へ統制される。さらに、人民の間に広く浸透していた「年画」[1]などの民間芸術の形式や表現が取り込まれ、明るく輝かしい色彩と中心人物を突出させる平明な構図を特色とする様式(毛様式)が主になる。革命の英雄や歴史的場面、模範的労慟者などが描かれ、資本主義と西洋に対する社会主義と中国の優位、国家が人民にもたらす恩恵、社会主義の理想像など政治的メッセージがイメージのなかに込められた。とくに文化大革命(文革)期(1966~77年)にはプロパガンダの性格が極まり、毛沢東像や革命の理想像を描いたポスターが印刷され、中国全土に普及した。共産党の情宣活動を担ったこの時期の美術は、文革終了とともにひとつの節目を迎えるが、いまでも全国美術展のなかでテーマ、表現ともに命脈を保っている

 

 

改革開放~天安門事件 欧米現代美術の流入と反体制アート

 

1977年に文革が終わると、翌78年に「北京の春」民主化運動が起こり、中国は改革開放へ向けて大きく舵をきっていく。そのなかで1979年に成立した〈星星画会〉は、前時代の主題と表現がただひとつの太陽(毛沢東は太陽で表象された)のように信望されていたのに対し、宇宙には太陽と平等な星々があり、無数の星のように無数の自由な表現があることを主張、美術における民主化を求めた。だが二度開催された展覧会には、社会批判的なテーマの作品から温厚な水墨画まで、テーマも表現も多種多様なものが集まり、結局、そのなかから美術理論を追求し表現を洗練させる間もなく、1980年には民主化運動の沈静化にともない解散している。わずか2年ではあったが、〈星星画会〉は前時代までの美術に終焉を告げることで現代美術の幕を切って落とす使命を十分に果たしたと言ってよい。

 

1980年代になると、改革開放政策により海外へ門戸を開いた中国に、欧米の100年におよぶ現代美術の歴史が怒涛のように流れ込む。新しい情報を吸収することに熱狂したアーティストは、1985年頃から20以上の都市に100近いグループを結成し、インスタレーションやパフォーマンスを含む様々な実験を繰広げた。ホアン・ヨンピン(黄永砅)が率いた〈廈門(アモイ)ダダ〉、ジャン・ペイリー(張培力)を中心とした〈池社〉、ワン・グァンイー(王広義)らの〈北方芸術群体〉などが代表的である。これらは、同時多発的に各地に結成された集団だったが、美術の革新と芸術の自由化に賭ける若きアーティストの熱意、政治的抑圧を打開しようとする表現に共通性があった。この若い運動は、表現もそれを支えるコンセプトも十分に成熟するには至らなかったものの、そのダイナミックな波は「八五美術運動」と呼ばれ、80年代を象徴する美術潮流となっている。

 

また、この八五美術運動の波にもまれて、多くのアーティストが1990年代に頭角を現しており、その意味で1980年代は現代美術の揺藍期でもあった。運動から距離をおいたシュー・ビンやリュー・ションジョン(呂勝中)も、この時代に自らの方向を見極めている。シュー・ビンが4000あまりの新しい意味を持たない文字を漢字からつくり出したことは、中国文明の根幹である漢字を操る、途方もない思想と作業であった。リュー・ションジョンは民間に伝わる剪紙(切り絵)や年画を全土で調査・収集することで、民間芸術の持つ呪術性、生命力、死の問題を再考し作品に再生していく。1988年に開催されたふたりの展覧会がセンセーションを巻き起こしたことは言うまでもない。翌年2月に開催された中国現代芸術展(中国美術館/北京)は、1980年代を回顧し総括すると同時に、ふたりのインスタレーションを含むことによって、中国の伝統文化を現代美術に再生させるという欧米の模倣ではない独自の現代美術のひとつの方向を示し、新たな時代へ展望を開く記念碑的な展覧会になった。だが4か月後に起きた「天安門事件」によって、美術表現の民主化とともにあった現代美術の80年代が終わり、現代美術界は沈黙の時を迎えることになる。

 

1990年代の新しい時代は、「円明園芸術家村」と「北京東村」の形成で始まる。「円明園芸術家村」を一躍有名にしたファン・リージュン(方力鈞)は、スキンヘッドの歪んだ笑い顔の男をいくつも並べて描き、同質の人間をコピーのようにつくり出す社会の不気味さを暗示した。彼のような冷ややかに社会を観察する表現は「シニカル・リアリズム」と呼ばれ、当時大きな潮流となった。また、毛沢東像や文革期のポスターのイメージをセクシーな女性や輸入商品のイメージと組み合わせ、民主化の規制に反して市場経済化が進む社会と政治の歪みを椰楡した「ポリティカル・ポップ」も流行している。その代表格のワン・グァンイ(王広義)はかつて〈北方芸術群体〉を率いた画家である。他方、1980年代に集団で行われたパフォーマンスは、個人で行われるようになり、洗練された緊張感ある表現をもつに至った。女のような顔と手を持ち、性差を超える妖しいパフォーマンスのマー・リウミン(馬六明)、自身を限界に追い込む自虐的パフォーマンスのジャン・ファン(張洹)。民主化への警戒が続く社会の緊迫感を映した彼らの衝撃的でゲリラ的な行為は、北京東村を内外に知らしめるのに十分であった。

 

杭州では、1980年代の〈池社〉の中核だったジャン・ペイリーがひとつの動作を単調に繰り返すビデオを制作、中国にビデオアートのジャンルを切り拓いている。アーティストたちは、政治の矛盾と市場経済化の進む社会の歪み、そのなかで生きる人間性の問題や自身の生の状態などのテーマに向き合い、ある者はアイロニカルに、ポップに、キッチュにそれを表現し、またある者はそれに抗うように異常さ漂う深刻な表現を見せ、アジアのなかでも政治的・社会的であることを印象づけた。実際、民主化運動の申し子として産み落とされた〈星星画会〉以来、中国現代美術は「反体制」という点で政治性が強く過激な側面を持っていた。

 

 

経済成長時代の新世代アートへ

 

1990年代後半以降は多様化が進んでいる。それまでの政治的な側面は次第に薄れ、消費社会やコミュニティやジェンダーの問題、また個人的な関心事にテーマが移っている。文革を知らず、改革開放後の市場経済社会で育った若いアーティストにとって、政治よりも身近な出来事のほうに現実味があるのだ。この10年問に新しく出てきた潮流には、きわめて通俗的な手法で1990年代に出現した消費社会の快楽を諧謔的に表現した「艶俗芸術」や、その対極にある、人の死体まで扱い生と死に深く関わる「死体派芸術」がある。

 

またいっぽう、ほかのアジア諸国と同様に急速なグローバル化を経験している中国でも、国際的な動向に沿った、多くの人を巻き込むプロジェクトや観客が参加する形式の作品、コンピューターを駆使した作品などが1990年代後半にはよく見られた。そして近年では、ビテオや写真に多くのアーティストが取り組む傾向があり、演劇やファッションなど領域を超えたコラボレーションも増えている。また、これら現代美術の領域で仕事をする女性アーティストが増えていることも特筆される(1990年代まではアジアのほかの国と比べても女性アーティストは非常に少なかった)。今後、女性たちが男性とは違う視点と手法でなにをどう表現していくか注目したい。

 

そして、アジアで最も作品の質の高さとアーティストの層の厚さを誇る中国現代美術が、それに注がれる海外の関心(とくに巨額の資金が動く市場の狂気)とどのように絡みつつ、北京オリンピック(2008年)と上海万博(2010年)という二大国際イベントを経て、どこへ向かっているのか……いま、興味深い局面に差し掛かっているように思われる。

 

[1] 中国で春節(旧正月)に門や家のなかに貼られる民間絵画(フォーク・アート)、幸福・豊作・金儲けなどを願う、色鮮やかな版画。英語はNew-year Painting。伝統的主題だけでなく各時代の政治状況を反映した画題もある。

 

(イメージ画像)

上海バンド

観光地となった烏鎮

中秋節のランタン

上海当代美術博物館(Power Station of Art)で上海ビエンナーレ

北京の中国美術館

 

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