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台湾の近代美術
ラワンチャイクン寿子
(元福岡アジア美術館学芸員、
現福岡市美術館学芸員)
初出=『美術フォーラム21』(2010年)
台湾の近代美術は、日本が帝国として、圧倒的な軍事力を背景に台湾を植民統治し、交通や通信をはじめとした近代的な社会基盤を整え、その果てに日中戦争・太平洋戦争へと猛進していった時代(1895~1945年)に形成されていく。
台湾における美術教育は1902年に国語学校(後の師範学校)で習字図画が科目とされ、その後1912年には公学校(台湾人師弟が通う初等教育機関)で手工図画が教えられるなど、 日本の統治の初期からはじまっている。しかし、台湾における美術教育は、生活に必要な技能の訓練と台湾での需要に応じるためであり、美術家を育成するためではなかった。そのため、日本の統治期には、ついに台湾に専門的な美術学校が設立されることはなく、美術家を志す台湾人は、東京や京都など「内地」へ留学するか、在台湾日本人や留学した台湾人について学ぶしかなかった。重要な美術教師として、水彩画家の石川欽一郎、油彩画家の塩月桃甫、日本画家の郷原古統が台湾人学生の育成に情熱を注いだことで知られている。また、日本画家の木下静涯も絵画観のうえで啓蒙的な役割を果たした。彼らが重視した教育は写生を基本としたもので、対象を十分に観察し客観的に把握する視点が養われている。これは、清朝支配下で享受されてきた水墨の写意的な文人画とは大きく異なるもので、後述する台湾美術展覧会でも初回から文人画風の作品は評価されていない。
初期の台湾人作家に《蕃童》で台湾人として初めて帝展[1](1920年)に入選したホワン・トゥシュエイ(黄土水 1895~1930年)がいる。自然主義的な表現で木や大理石、石膏による写実的な彫刻を制作しており、肖像彫刻を得意とする一方で、台湾情趣にとんだ題材を好んだ。深い奥行き感と湿潤な大気まで表出したレリーフ《水牛群像》(1930年)[2]は集大成的作品で、作者がその完成とともに35歳で早世したことが惜しまれる。台湾人画家としては、チェン・チェンボー(陳澄波 1895~1947年)が《嘉義の街はずれ》で帝展(1926年)に初入選した。チェンは、故郷の嘉義や淡水の風景、家族を独特な構図と表現主義的な手法で描いた台湾近代美術を代表する画家だが、残念ながら1947年の二二八事件で犠牲になっており、その死は台湾近代美術史に大きな損失を与えた。ほかに、チェン・チェンボーにつづいて弱冠21歳で帝展入選をはたしたチェン・ジーチー(陳植棋1906~1931年) がいる。彼らの「内地」での活躍は、まさに短期間で台湾の近代美術が開花し、力のある台湾人作家が育ったことを語るものだろう。
1920年代には台湾人作家の「内地」での活躍にともない、台湾でも発表の場が求められるようになる。また社会的には、内地延長主義[3]に基づいて日本と同じ機構制度がしかれ、教育文化においても新たな局面を迎えている。そうした美術家側の要望と政治・社会の趨勢が一体となる中、日本語教育による同化政策を推し進めた〈台湾教育会〉によって、1927年10月に「台湾美術展覧会(台展)」が開催された。以降、「台展」は1936年まで10回開かれ、日中戦争の勃発で中止された後、1938年に台湾総督府文教局に引き継がれ、「台湾総督府美術展覧会(府展)」として1943年まで6回おこなわれている。ともに「帝展」をモデルに、東洋画(帝展の日本画にあたる)と西洋画の二部構成で、特選、台展賞(府展では総督賞)などの受賞制度も整えられた。審査員は、先の石川欽一郎らのほか、日本画壇の有力者で「内地」官展の主導者が招かれている(なお、リャオ・ジーチュン[廖継春 1902~76年]とチェン・ジン[陳進 1907~98年]が第6~8回、イェン・シュエイロン[顔水龍 1903~97年]が第8回の番査に加わった)。このように「台展」「府展」は、「帝展」を規範とした制度や「内地」の重鎮による審査によって、容易に「内地」と結ぴつき、日本人審査貝の意向が支配的にはたらく場であり、「内地」官展を頂点としたヒエラルキーが意識される場であった。絵画の様式でも、「内地」官展の動向に左右され、また日本人審査員や評論家から、台展期には「ローカル・カラー(地方色)」[4]の表出が求められた。台湾らしい南国の風景や植物、「支那」風の風俗や人物、先住民などが好画題とされ、稚拙味のある描写や鮮明な色彩などが歓迎されている。さらに府展期には、日中戦争から太平洋戦争へと突き進む時代のなかで、南進の拠点としての台湾の位置づけがより明確化し、作品にも時局色を表出することが求められた。この時期には、銃後の生活を描いた作品など、暗喩的に戦争を表現した作品が見られるようになっている。
審査貝だったリャオ・ジーチュンは、代表作《芭蕉の庭》(1928年、台北市立美術館所蔵)に見られるように、光と影の明暗、色彩の対比、勢いのある筆致で表現主義的に南国の強い日差しを感じさせる作品を制作している。イェン・シュエイロンは、フランスヘ留学しサロンで入選をはたした数少ない台湾人画家で、暗鬱な風景画のほか先住民を積極的に描いている。東洋画の女性画家チェン・ジンは、平明な構図のうちに上品で繊細な中国服の女性像を得意とし《合奏》(1934年、個人蔵)で台湾人の東洋画家としても女性としても初めて帝展に入選した[5]。ほかに、陳進とともに東洋画の「三少年」と呼ばれたリン・ユイシャン(林玉山 1907~2004年)は、花烏や動物を自然主義的に描きだしており、《蓮池》(1930年、国立台湾美術館所蔵)はその写生に基づく精緻な表現をよく伝える。もうひとりのグオ・シュエフ(郭雪湖 1908~2012年)は、素朴ながらも細部を緻密に柏み上げて艶麗な色彩を施す独特のスタイルを確立した。この時期の代表作に《圓山付近》(1917年)や《南街殷賑》(1930年、ともに台北市立美術館所蔵)などがあり、これらは日本の統治と深く結ぴつくテーマだった点も注意される。
当時の美術団体に、チェン・チェンボーやリャオ・ジーチュンらを中心に1934年に創設された台湾最大の団体、〈太陽美術協会〉がある。会員たちの切磋琢磨、美術振興、後進の育成を目的としており、「台展」「府展」につぐ規模の展覧会を実施した。また1937年には、ホン・ルイリン(洪瑞麟 1912~96年)らが反体制的な〈MOUVE美術家協会〉を結成(翌年活動を開始、戦後は紀元美術協会に継承)、「若さ、情熱、明朗」をもってそれぞれが自由に創作することを目指した。しかし、これらもまた、「台展」「府展」と同様に太平洋戦争の激化によって活動が中止され、終戦とともに日本統治下の台湾の近代美術史は終焉を迎える。
戦後の台湾美術は、極端にいえば、これまで述べてきた美術を否定することから始まっていった。中華民国に復帰した台湾社会は、国民党による統制のもとで大きな変化を体験していく。その変化は文化全般におよぴ、日本統治下で台湾近代美術を担った作家にとっては苦難の時代ともなる。1946年に「台展」「府展」を継承した「台湾省全省美術展覧会(省展)」では、国民党とともに移住した大陸出身の作家が優位な立場にたつにつれ、東洋画(膠彩画と改称)はしだいに排斥され、水墨画が「国画」として位置づけられる。東洋画家たちが、それまでのテーマや表現スタイルを、戦前に大陸で形成された中国近代美術の文脈に見合うよう変えざるをえなかったのは言うまでもない。台湾の1950、60年代は、日本の影響を受けて形成された台湾文化と中国からの新たな文化が激しく衝突した時代であるだろう。同時に、社会では工業化がすすみ、西洋モダニズムの受容もすすんだ時代であった。
この時期、二つのモダニズムのグループが登場している。ひとつは、戦後に台湾へ移住したリュウ・グオソン(劉国松 1932年~)を中心に結成された〈五月画会〉(1957~72年)で、水墨と油彩(中国伝統絵画と西洋抽象絵画)の大胆な融合、表現の自由などを提唱し、中国画の現代化を目指した。画布に水墨、紙に油彩など材料の混交、書や山水画を意識した抽象表現などの実験をおこなっている。もうひとつは、〈東方画会〉(1957~71年)である。会の支柱となったのは、戦前の上海にモダニズムを導いた〈決瀾社〉の若きメンバーで、東京で〈二科会〉に参加後、戦後は国民党員として台湾に移ったリー・ジョンシェン(李仲生)であった。〈東方画会〉もまた、中国文化と欧米の抽象表現の結合を唱え、書の筆跡や禅の概念などを取り入れて現代中国絵画の確立を目指している。これらふたつのグループにみられるように、戦後台湾におけるモダニズムは、主に国民党とともに移住した大陸出身の作家によって担われ、水墨、書、山水、禅など中国の伝統文化における造形言語と理論を欧米の抽象表現で再解釈することを通して、中華民族にとっての新たな近代美術が創出された点に特色がある。それは、戦前の上海モダニズムを引き継ぐ展開でもあった。
しかし台湾は、1971年に米中国交回復により国連から脱退することになる。以降、台湾では郷土意識が高まり、その中で、台湾出身のジュウ・ミン(朱銘 1938~2023年)[6]が伝統的な宗教彫刻にモダニズム彫刻を融合させた独自のスタイルを築き、台湾らしい題材を力強く表現し、熱狂的に迎えられている。そのことは、新たな台湾アイデンティティの形成を示唆するきわめて象徴的なことであった。
編注
[1] 正式名称は「帝国美術院展覧会」。フランスのサロンにならって1907年から開かれていた文部省美術展覧会(文展)を引き継ぎ、文部大臣管理下の帝国美術院によって、1919~35年に開催された。1935年の組織替え(松田改組)の後、1937年には再び文部省主催の新文展となり、1946年に日本美術展覧会(日展)として再開(現在の「日展」は社団法人が運営)。
[2] 台湾近代美術史上屈指の傑作といえるこの作品は、作家の没後にブロンズに鋳造された作品は現在も台北の中山堂で見ることができる。2009年には20世紀の作品としては初めて国宝に指定された。また同じ作者の《甘露水》(1919年)は長く所在不明だったが、発見後、2023年にやはり国宝に指定された。
[3] 日本統治時代の朝鮮と台湾で、日本(内地)と同様の制度を朝鮮と台湾に適用し、内地との同化をめざす政策。
[4] 飯尾由貴子「陳進の女性像と郷土色(ローカルカラー) 1930年代の作品を中心に」、『台湾の女性日本画家 生誕100年記念 陳進展』、渋谷区立松濤美術館ほか編・発行、2006年、20-27頁。
[5] 福岡アジア美術館所蔵の陳進作品については下記を参照。ラワンチャイクン寿子「台湾の女性『日本画家』 陳進筆《サンティモン社の女》をめぐって」、『美術史』165号(2008年10月)、162~176頁。
[6] 福岡アジア文化賞受賞作家。
(イメージ画像)
街のあちこちにある廟
台北当代芸術館(Taipei MOCA)
チェン・ジン
台湾の近代美術
ラワンチャイクン寿子
(元福岡アジア美術館学芸員、
現福岡市美術館学芸員)
初出=『美術フォーラム21』(2010年)
台湾の近代美術は、日本が帝国として、圧倒的な軍事力を背景に台湾を植民統治し、交通や通信をはじめとした近代的な社会基盤を整え、その果てに日中戦争・太平洋戦争へと猛進していった時代(1895~1945年)に形成されていく。
台湾における美術教育は1902年に国語学校(後の師範学校)で習字図画が科目とされ、その後1912年には公学校(台湾人師弟が通う初等教育機関)で手工図画が教えられるなど、 日本の統治の初期からはじまっている。しかし、台湾における美術教育は、生活に必要な技能の訓練と台湾での需要に応じるためであり、美術家を育成するためではなかった。そのため、日本の統治期には、ついに台湾に専門的な美術学校が設立されることはなく、美術家を志す台湾人は、東京や京都など「内地」へ留学するか、在台湾日本人や留学した台湾人について学ぶしかなかった。重要な美術教師として、水彩画家の石川欽一郎、油彩画家の塩月桃甫、日本画家の郷原古統が台湾人学生の育成に情熱を注いだことで知られている。また、日本画家の木下静涯も絵画観のうえで啓蒙的な役割を果たした。彼らが重視した教育は写生を基本としたもので、対象を十分に観察し客観的に把握する視点が養われている。これは、清朝支配下で享受されてきた水墨の写意的な文人画とは大きく異なるもので、後述する台湾美術展覧会でも初回から文人画風の作品は評価されていない。
初期の台湾人作家に《蕃童》で台湾人として初めて帝展[1](1920年)に入選したホワン・トゥシュエイ(黄土水 1895~1930年)がいる。自然主義的な表現で木や大理石、石膏による写実的な彫刻を制作しており、肖像彫刻を得意とする一方で、台湾情趣にとんだ題材を好んだ。深い奥行き感と湿潤な大気まで表出したレリーフ《水牛群像》(1930年)[2]は集大成的作品で、作者がその完成とともに35歳で早世したことが惜しまれる。台湾人画家としては、チェン・チェンボー(陳澄波 1895~1947年)が《嘉義の街はずれ》で帝展(1926年)に初入選した。チェンは、故郷の嘉義や淡水の風景、家族を独特な構図と表現主義的な手法で描いた台湾近代美術を代表する画家だが、残念ながら1947年の二二八事件で犠牲になっており、その死は台湾近代美術史に大きな損失を与えた。ほかに、チェン・チェンボーにつづいて弱冠21歳で帝展入選をはたしたチェン・ジーチー(陳植棋1906~1931年) がいる。彼らの「内地」での活躍は、まさに短期間で台湾の近代美術が開花し、力のある台湾人作家が育ったことを語るものだろう。
1920年代には台湾人作家の「内地」での活躍にともない、台湾でも発表の場が求められるようになる。また社会的には、内地延長主義[3]に基づいて日本と同じ機構制度がしかれ、教育文化においても新たな局面を迎えている。そうした美術家側の要望と政治・社会の趨勢が一体となる中、日本語教育による同化政策を推し進めた〈台湾教育会〉によって、1927年10月に「台湾美術展覧会(台展)」が開催された。以降、「台展」は1936年まで10回開かれ、日中戦争の勃発で中止された後、1938年に台湾総督府文教局に引き継がれ、「台湾総督府美術展覧会(府展)」として1943年まで6回おこなわれている。ともに「帝展」をモデルに、東洋画(帝展の日本画にあたる)と西洋画の二部構成で、特選、台展賞(府展では総督賞)などの受賞制度も整えられた。審査員は、先の石川欽一郎らのほか、日本画壇の有力者で「内地」官展の主導者が招かれている(なお、リャオ・ジーチュン[廖継春 1902~76年]とチェン・ジン[陳進 1907~98年]が第6~8回、イェン・シュエイロン[顔水龍 1903~97年]が第8回の番査に加わった)。このように「台展」「府展」は、「帝展」を規範とした制度や「内地」の重鎮による審査によって、容易に「内地」と結ぴつき、日本人審査貝の意向が支配的にはたらく場であり、「内地」官展を頂点としたヒエラルキーが意識される場であった。絵画の様式でも、「内地」官展の動向に左右され、また日本人審査員や評論家から、台展期には「ローカル・カラー(地方色)」[4]の表出が求められた。台湾らしい南国の風景や植物、「支那」風の風俗や人物、先住民などが好画題とされ、稚拙味のある描写や鮮明な色彩などが歓迎されている。さらに府展期には、日中戦争から太平洋戦争へと突き進む時代のなかで、南進の拠点としての台湾の位置づけがより明確化し、作品にも時局色を表出することが求められた。この時期には、銃後の生活を描いた作品など、暗喩的に戦争を表現した作品が見られるようになっている。
審査貝だったリャオ・ジーチュンは、代表作《芭蕉の庭》(1928年、台北市立美術館所蔵)に見られるように、光と影の明暗、色彩の対比、勢いのある筆致で表現主義的に南国の強い日差しを感じさせる作品を制作している。イェン・シュエイロンは、フランスヘ留学しサロンで入選をはたした数少ない台湾人画家で、暗鬱な風景画のほか先住民を積極的に描いている。東洋画の女性画家チェン・ジンは、平明な構図のうちに上品で繊細な中国服の女性像を得意とし《合奏》(1934年、個人蔵)で台湾人の東洋画家としても女性としても初めて帝展に入選した[5]。ほかに、陳進とともに東洋画の「三少年」と呼ばれたリン・ユイシャン(林玉山 1907~2004年)は、花烏や動物を自然主義的に描きだしており、《蓮池》(1930年、国立台湾美術館所蔵)はその写生に基づく精緻な表現をよく伝える。もうひとりのグオ・シュエフ(郭雪湖 1908~2012年)は、素朴ながらも細部を緻密に柏み上げて艶麗な色彩を施す独特のスタイルを確立した。この時期の代表作に《圓山付近》(1917年)や《南街殷賑》(1930年、ともに台北市立美術館所蔵)などがあり、これらは日本の統治と深く結ぴつくテーマだった点も注意される。
当時の美術団体に、チェン・チェンボーやリャオ・ジーチュンらを中心に1934年に創設された台湾最大の団体、〈太陽美術協会〉がある。会員たちの切磋琢磨、美術振興、後進の育成を目的としており、「台展」「府展」につぐ規模の展覧会を実施した。また1937年には、ホン・ルイリン(洪瑞麟 1912~96年)らが反体制的な〈MOUVE美術家協会〉を結成(翌年活動を開始、戦後は紀元美術協会に継承)、「若さ、情熱、明朗」をもってそれぞれが自由に創作することを目指した。しかし、これらもまた、「台展」「府展」と同様に太平洋戦争の激化によって活動が中止され、終戦とともに日本統治下の台湾の近代美術史は終焉を迎える。
戦後の台湾美術は、極端にいえば、これまで述べてきた美術を否定することから始まっていった。中華民国に復帰した台湾社会は、国民党による統制のもとで大きな変化を体験していく。その変化は文化全般におよぴ、日本統治下で台湾近代美術を担った作家にとっては苦難の時代ともなる。1946年に「台展」「府展」を継承した「台湾省全省美術展覧会(省展)」では、国民党とともに移住した大陸出身の作家が優位な立場にたつにつれ、東洋画(膠彩画と改称)はしだいに排斥され、水墨画が「国画」として位置づけられる。東洋画家たちが、それまでのテーマや表現スタイルを、戦前に大陸で形成された中国近代美術の文脈に見合うよう変えざるをえなかったのは言うまでもない。台湾の1950、60年代は、日本の影響を受けて形成された台湾文化と中国からの新たな文化が激しく衝突した時代であるだろう。同時に、社会では工業化がすすみ、西洋モダニズムの受容もすすんだ時代であった。
この時期、二つのモダニズムのグループが登場している。ひとつは、戦後に台湾へ移住したリュウ・グオソン(劉国松 1932年~)を中心に結成された〈五月画会〉(1957~72年)で、水墨と油彩(中国伝統絵画と西洋抽象絵画)の大胆な融合、表現の自由などを提唱し、中国画の現代化を目指した。画布に水墨、紙に油彩など材料の混交、書や山水画を意識した抽象表現などの実験をおこなっている。もうひとつは、〈東方画会〉(1957~71年)である。会の支柱となったのは、戦前の上海にモダニズムを導いた〈決瀾社〉の若きメンバーで、東京で〈二科会〉に参加後、戦後は国民党員として台湾に移ったリー・ジョンシェン(李仲生)であった。〈東方画会〉もまた、中国文化と欧米の抽象表現の結合を唱え、書の筆跡や禅の概念などを取り入れて現代中国絵画の確立を目指している。これらふたつのグループにみられるように、戦後台湾におけるモダニズムは、主に国民党とともに移住した大陸出身の作家によって担われ、水墨、書、山水、禅など中国の伝統文化における造形言語と理論を欧米の抽象表現で再解釈することを通して、中華民族にとっての新たな近代美術が創出された点に特色がある。それは、戦前の上海モダニズムを引き継ぐ展開でもあった。
しかし台湾は、1971年に米中国交回復により国連から脱退することになる。以降、台湾では郷土意識が高まり、その中で、台湾出身のジュウ・ミン(朱銘 1938~2023年)[6]が伝統的な宗教彫刻にモダニズム彫刻を融合させた独自のスタイルを築き、台湾らしい題材を力強く表現し、熱狂的に迎えられている。そのことは、新たな台湾アイデンティティの形成を示唆するきわめて象徴的なことであった。
編注
[1] 正式名称は「帝国美術院展覧会」。フランスのサロンにならって1907年から開かれていた文部省美術展覧会(文展)を引き継ぎ、文部大臣管理下の帝国美術院によって、1919~35年に開催された。1935年の組織替え(松田改組)の後、1937年には再び文部省主催の新文展となり、1946年に日本美術展覧会(日展)として再開(現在の「日展」は社団法人が運営)。
[2] 台湾近代美術史上屈指の傑作といえるこの作品は、作家の没後にブロンズに鋳造された作品は現在も台北の中山堂で見ることができる。2009年には20世紀の作品としては初めて国宝に指定された。また同じ作者の《甘露水》(1919年)は長く所在不明だったが、発見後、2023年にやはり国宝に指定された。
[3] 日本統治時代の朝鮮と台湾で、日本(内地)と同様の制度を朝鮮と台湾に適用し、内地との同化をめざす政策。
[4] 飯尾由貴子「陳進の女性像と郷土色(ローカルカラー) 1930年代の作品を中心に」、『台湾の女性日本画家 生誕100年記念 陳進展』、渋谷区立松濤美術館ほか編・発行、2006年、20-27頁。
[5] 福岡アジア美術館所蔵の陳進作品については下記を参照。ラワンチャイクン寿子「台湾の女性『日本画家』 陳進筆《サンティモン社の女》をめぐって」、『美術史』165号(2008年10月)、162~176頁。
[6] 福岡アジア文化賞受賞作家。
(イメージ画像)
街のあちこちにある廟
台北当代芸術館(Taipei MOCA)