地域概要

マレーシア Southeast Asia

マレーシアの多民族社会にみる美術変遷

石松紀子(広島市立大学)

 

マレーシアの歴史的・社会的な背景

マレーシアは、マレー半島南部の西マレーシアとボルネオ島北部の東マレーシアからなり、マレー系、華人系、インド系といった多民族国家として知られる。西マレーシアに位置する首都クアラルンプールは、政治・経済・芸術文化の要として機能し、マレーシア人口の約8割が西マレーシアに集中する。一方、国土の約6割を占める東マレーシアのサバ州やサラワク州は、天然資源や自然が豊かな地域で、イバン族などの先住民族が多く暮らす。

マレーシアの歴史をみると、14世紀末頃にマラッカ王国が成立して海上交易の要衝となり、イスラームやマレー文化の中心地として繁栄を極めていた。16世紀にはポルトガル、17世紀にはオランダがマラッカを占領するが、18世紀後半よりイギリスがマレー半島の植民地支配を始め、この地域を英領マラヤとして統治した。19世紀に入ると、イギリスが鉱山や農園の労働者として、中国やインドから多くの移民を受け入れてきたことから、現在の多民族社会の土台が形成されるようになった。

イギリス統治時代には、イギリスの政府役人や旅行者らが、マレー半島の風景や風俗を自然主義的に描きながら、それらを観察・記録してきたが、現地における西洋美術の受容は20世紀初頭まで待つことになる。宗主国イギリスは、西洋の美術や文化の普及よりも、経済問題に注力しており、現地において西洋美術を教える学校を設立することはなかった。その理由のひとつとしては、同地に根づくイスラームとの衝突を避けていたことが挙げられる。伝統的なイスラームにおいて、現実を再現的に表現することは禁じられており、西洋の写実主義や自然主義を受け入れるには時間を要したのだ。

 

西洋美術の受容と近代美術の始まり

20世紀初頭までには、マラッカやペナンを中心に都市化が進み、西洋美術受容の兆しが見えてくる。その初期の例として、マラッカで活躍した華人系画家のロー・クェイソン(劉開賞、1889~1982)やスリランカから移住したオ・ドン・ペリス(1893~1975)の油彩画があり、いずれも西洋のアカデミズム的な肖像画や風景画を描いている。

ペナンにおいても、アブドゥーラ・アリフ(1904~62)やタイ・ホイキィ(戴恵吉、1910~89)といった画家たちが、水彩画で島の美しい風景を描くようになる。1935年には、ヨン・ムンセン(楊曼生、1896~1962)が中心となり、華人系の美術教師や画家から成る〈嚶嚶(インイン)芸術社〉がペナンで結成された。創成期メンバーのクゥ・ジュピン(1908~66)やリー・チェンヨン(1913~1974)らは、地元の人々の暮らしや牧歌的な風景を描いた。翌年には、同じ英領マラヤに属していたシンガポールに〈華人美術研究会〉が結成され、同研究会と〈嚶嚶芸術社〉の協力のもと、1938年に南洋美術専科学校がシンガポールに設立された。これらの団体や学校を支えた華人系コミュニティによって、マレー半島における近代美術が導入されることになる。

中国の上海や厦門(アモイ)では、1920年代から30年代にかけて西洋美術を教える美術学校が設立され、その教師陣はパリや東京で、印象派、フォーヴィスム、キュビスムといったモダニズム絵画を学んでおり、その経験に基づいた教育が導入されていた。マレー半島で活躍する華人系画家や南洋美術専科学校の教師陣には、中国で西洋美術の教育を受けた者が多かったのである。しかし、太平洋戦争の勃発に伴い、1941年に日本軍がマレー半島を占領すると、〈嚶嚶芸術社〉や〈華人美術研究会〉は活動を停止させられ、南洋美術専科学校[1]も閉校を余儀なくされた。

 

独立当初の美術~美術館と美術学校の設立

終戦後、再びイギリスがマレー半島を統治するが、独立への機運が高まり、1957年にマラヤ連邦としてイギリスの植民地支配から独立を果たす。翌年1958年には、クアラルンプールにある政府が所有する建物の一角に、国立美術館(National Art Gallery)が開館する[2]。同館が独立後まもなく設立されるうえで重要な役目を果たしたのが、1952年に創設されたマラヤ・アーツ・カウンシル(Malaya Arts Council)である。マラヤ・アーツ・カウンシルは、イギリス統治時代のマラヤにおけるはじめての美術機関で、この地域における芸術文化を促進する役割を担っていた。

1963年には、シンガポール、サバ、サラワクを含むマレーシアが成立し、1965年にシンガポールが分離独立したことで現在のマレーシアとなる。多様な民族から成るマレーシアにおいて、独立した国家としてのアイデンティティを確立していくために、国立美術館では「マレーシア美術」を収集・展示することが求められていった。

美術教育機関としては、1952年には、イギリス人画家のピーター・ハリス(1923~2009)が〈水曜美術会(Wednesday Art Group)〉を発足し、毎週水曜日に国立美術館の一室で絵画教室を開き、パトリック・ン(1932~1989)といった若手作家の育成に尽力した。1956年には、インドネシア出身のフセイン・エナス(1924~1955)が〈半島画家協会(Angkatan Pelukis Semenanju)〉[3]を結成し、マレーの人々や風俗を描いた。同じ頃、チュア・ティエンティン(蔡天定、1914~2008)はろうけつ染のバティック技法を用いて絵画を制作し、伝統工芸であったバティックを「バティック絵画」として美術の枠組みに取り入れた。

当時のマレーシアには美術を学べる高等教育機関がなかったことから、政府は奨学金制度を設け、将来性のある若者に海外で美術を学ぶ機会を与えた。これにより、イギリスをはじめとした欧米で美術教育を受ける作家が現れ、1960年代には、海外留学から帰国した作家たちによって新たな美術動向が導入されていく。

 

新たな美術動向の萌芽

1967年に、ヨーロッパ留学から帰国したサイード・アフマド・ジャマル(1929~2011)ら7名の作家たちが「グルップ(GRUP)」展[4]を開催した。同展では、これまでマレーシアで見られていた具象的・自然主義的な絵画と異なり、作家の内面性や感情を表出する抽象表現主義的な絵画が展示された。植民地支配から解放され、海外の美術動向を生身で感じてきた作家たちが、自由を謳歌する情感を、主観的かつ直観的に表現していたといえる。同展は、マレーシア美術界にとって、新たな時代の幕開けを示すものとなった。翌年、国立美術館開館10周年記念として、公募展「サロン・マレーシア」(1968年)が開催され、「グルップ」展の参加作家7名中4名に賞が授与された。抽象表現主義が公的な美術館で受け入れられた反面、そのような欧米美術の影響を受けた作品が評価されることに対して反感を抱く作家たちもいた。その多くが〈半島画家協会〉のメンバーであり、反対の意思表示として「サロン・マレーシア」への出品を取り消す事態を招いた。

また、「グルップ」展の主観的・直感的な表現に対して、批判的な反応も見られた。そのような美術への反動として、レッザ・ピヤダサ(1939~2007)、スライマン・エサ(1953~)、チョン・カムカオ(鍾金鈎、1934~)といったマラ工科学院の教員たちは「ニュー・シーン(The New Scene)」展(1969年)を開催し、科学技術に基づいたオプティカル・アートや構成主義に着想を得た作品を展示した。同展の趣旨は、続いて開催された「実験’70 (Experimentasi ’70)」展(1970年)と「ドキュメント 71(Documentasi 71)」展(1971年)にも引き継がれる。これら展覧会の参加作家たちも、海外留学をとおして欧米の美術を受容しながら新たな美術様式をマレーシアに導入しており、フォーマリズムへの関心がみてとれる。

 

アイデンティティの模索 

欧米美術に見られるフォーマリズムの基づいた美術表現は、1971年に開催された国民文化会議を機に再考されることになる。その発端となったのが、1969年5月13日に起こった民族衝突だった。その数日前に行われた総選挙で、与党であるマレー系政党が議席数を減らし、野党の華人系政党が議席数を増やしたことが要因となり、首都クアラルンプールで数百名の死傷者をだす大惨事が起きた。この悲劇的な出来事により、民族間における政治的・社会的・経済的な問題が表面化し、抜本的な対策や変革が求められた。そのため、政府はマレー系住民の経済的地位を向上させるため、経済、教育、就職などの優遇措置として、1971年に「ブミプトラ(Bumiputera、「土地の子」の意)政策」を施行する。他にも、新経済政策や国家機密保護法など、新たな政策を制定することで、マレーシアの社会を統合・安定させようとした。このような変革は、政治・経済に限らず芸術文化においても施行された。

1971年に、マレーシアの芸術文化について議論する国民文化会議がマラヤ大学で開催され、社会的な統合を目指すために共有できる価値観の創出が芸術文化に求められた。同会議について、美術史家のサイモン・スーンは「地域固有の文化やイスラムの価値観を優先されたのみならず、会議出席者の大多数が、モダニスト的な『芸術のための芸術』ではなく『社会のための芸術』を擁護する側に票を投じた。さらに重要だったのは(中略)学者や公務員で構成された会議参加者の大半が、政府が表現の自由を制限する権限を拡大し、民族間の衝突をこれ以上繰り返されないようにすることに賛成票を投じたことだ。」[5]と説明する。この文化会議を受けて、同年、ナショナル・アイデンティティを促進、強化するために、政府によって国家文化政策が制定され、マレーシアの国教であるイスラームや土着文化を重視することが正当化された。以降、多くの作家たちは、伝統的な芸術様式や地域固有の文化を見つめ直し、自作の中にマレーシア文化の要素を取り入れる傾向が顕著になっていく。

このような転換を象徴する展覧会として、レッザ・ピヤダサとスライマン・エサが実施した「神秘的リアリティに向かって(Toward a Mystical Reality)」展(1974年)があげられる。同展では、日常生活の一部から取り出したファウンド・オブジェクトを展示するだけでなく、図録をとおして東洋思想に基づく神秘的な観点から芸術や生活にアプローチすることが主張された[6]。同展は、欧米中心主義的な美術からの脱却、また脱植民地化の試みとしてみられ、美術におけるマレーシアの独自性を探求する方向へと舵を取る急先鋒となった。さらに、1979年には、サイード・アフマド・ジャマルによって「形態と精神(Rupa dan Jiwa)」展が国立美術館で開催され、マレーシア的な芸術精神を求める方向性が強調された。

他方、1974年には、ラティフ・モヒディン(1941~)が芸術家コミュニティとして〈アナック・アラム(Anak Alam、「自然の子」の意)〉を発足させ、制度的な美術とは一線を画し、自然との調和や協働を取り入れた芸術実践を行った。

 

独自性の探求から新たな表現へ

これまで建物の一角で運営されていた国立美術館[7]だったが、1984年に旧マジェスティック・ホテルの建物に移転したことにより、大規模な展覧会を実施できる空間を得た。同年には、世界各地で活躍する現代のムスリム作家によるイスラーム美術の展覧会が開催され、その影響からマレーシアでもイスラーム美術への傾倒が強まっていく。なかでもスレイマン・エサアハマッド・カリッド・ユスフ(1929~97)は、そのような傾向において主導的な役割を果たした。スレイマンは、手すきの紙や金属の糸、そして竹といった工芸的な素材や手法を用いて、マレーの伝統文化とイスラーム美術を融合させた抽象絵画を制作する一方、アハマッド・カリッド・ユソフはコーランの言語として用いられるアラビア文字のカリグラフィー(書)を基にした絵画を描いて。

国家文化政策が制定されて以降、イスラームの文化に限らず、レッザ・ピヤダサのように、土着の文化や慣習に注目して制作する作家もいた。彼は、マレーやババ・ニョニャ[8]の伝統的な衣装を身に纏った古い肖像写真に、シルクスクリーンとコラージュを用いてカラフルな色彩を施しながら過去の記憶を現在へと接続。

このような「イスラーム」や「伝統」といった国家としての美術形成に寄与する姿勢は、1980年代後半以降に現れる次世代の作家たちのあいだでは次第に薄れていき、むしろ自分たちが直面する社会的・政治的・歴史的な課題と向き合う態度が目立ってくる。その背景に、当時のマハティール政権が1987年に決行したララン作戦[9]があったことは無視できない。マレー系と華人系の民族問題に絡み、百名にも及ぶ野党政治家やNGO活動家らが国内治安法のもと逮捕され、批判的な新聞は発行停止になるなど、言論や報道の自由が大幅に制限された。これにより、ある種の「表現の不自由さ」が生じたが、若手作家たちは新たな表現や手法を取り入れながらその時代に反応していったといえる。タン・チンクァン(陳振権、1966~)は、立体と平面を組み合わせた舞台装置的な作品を制作し、華人系作家としての不安や不満を表現している。ウォン・ホイチョン(黄海昌、1960~)は、日本占領期の粛清やポストコロニアル的な視点から植民地時代を回顧する作品を制作し、リュウ・クンユウ(劉庚煜、1960~)は当時の政府が目指した経済成長や都市開発に対して、コミカルに揶揄する作品を制作した。

この頃より、女性作家の活躍も表舞台で見られるようになる。ニルマラ・シャンムハリンガム(1941~2016)はジャーナリズム的な写真と絵画を組み合わせ、世界各地に偏在する貧困、差別、公害といった社会問題を直接的に可視化させ、エン・フュウチュウ(劉庚煜、1967~2016)は、妻そして母として自身が負う社会的役割を見つめ直す絵画を制作する。

1990年代には、〈マタハティ(Matahati)〉〈ルマ・アイル・パナス(Rumah Air Panas、「熱い水の家」の意)〉といったコレクティブやオルタナティブ・スペースが次々と誕生し、作家同士が協力し合い、共同で展覧会やワークショップを実施した。美術におけるインフラが十分に整えられていなかった状況もあり、特に若い世代の作家たちにとっては、自分たちで活動の場をつくるDIY精神が必要不可欠であったといえる。

このような協働が、美術の枠組みを超えてダンス・演劇・音楽を含むパフォーマンスへと拡張したイベントが、国立美術館で開催された「スキン・トリロジー(Skin Trilogy)」(1995年)である。同作は、「ファイブ・アーツ・センター(Five Arts Center)」が主催し、同センターのディレクターであるクリシェン・ジット(1939~2005)が監督を務め、ウォン・ホイチョンが美術監督を担当した。この種の領域横断的な芸術実践において、「ファイブ・アーツ・センター」や「センター・ステージ(Center Stage)」は重要な役割を果たした。

1980年代後半から90年代にかけては、映像やデジタル技術を用いたメディア・アートが現れる。イスマイル・ザイン(1930~91)の「デジタル・コラージュ」展(1988年)で、デジタル・アートが紹介されると、ウォン・ホイチョンやリュウ・クンユウのビデオ・アートがそれに続いた。1997年には、「第1回エレクトロニック・アート展」が国立美術館で開催され、ビデオ・インスタレーションやコンピューター・アートが展示された。同展は、ハスヌル・ジャマル・サイドン(1967~)とニランジャン・ラジャ(1961~)によって「電子アート・アセアン・オンライン(E-Art ASEAN Online)」へと発展する。

 

グローバルとローカルの視座

1980年代半ば頃から、銀行・石油・保険会社といった国内外の民間企業が美術支援を活発に行い、制作委託や作品を購入・収集・展示する機会が増えていった。そのような活動は、のちに企業が主導する美術館やギャラリーの創設、あるいは公募展の開催へと展開していく。

冷戦終結以降、美術におけるグローバル化が進み、国際展や美術市場が急速に拡大するなか、マレーシアの経済成長も比例して、国内においても商業ギャラリーやコレクターが急増する。コレクターの中には、「ヴァレンタイン・ウィリー・ファイン・アート(Valentine Willie Fine Art)」ギャラリーのように、自身のコレクションを基に、マレーシアだけでなく東南アジアの現代アートを積極的にとりあげるギャラリーも現れる。

作家の活躍の場も、アジア地域に留まらず、世界各地で開催されるビエンナーレやトリエンナーレといった国際的な展覧会へと拡大していく。さらに、2007年から始まった「アート・エクスポ・マレーシア(Art Expo Malaysian)」を皮切りに、国内外のギャラリーが出店するアート・フェアがマレーシアにおいても複数開催されるようになり、美術市場の裾野は広がっている。

マレーシアも例外でなく美術のグローバル化が進む一方、2000年以降、アーティストが運営するスペースやアーカイブ及びリサーチをおこなう草の根的な活動も活発になっていく。80年代後半に結成した〈マタハティ〉は、展覧会やアーティスト・イン・レジデンスを実施する「マタハティの家(House of Matahati)」を設立して、若手作家に活躍の場を提供している。また、「マレーシア・アート・アーカイブ&リサーチ・サポート(Malaysian Art Archive & Research Support)」や「マレーシア・デジタル・アーカイブ(Malaysia Digital Archive)」は、マレーシアの美術に関わる図録や資料等を収集・保管するアーカイブやリサーチ活動を行い、アート・プロジェクトや展覧会の企画・運営、及び出版を手がける「ログ・アート(Rogue Art)」は、マレーシアの近現代美術を解説するシリーズ本『マレーシア美術の物語(Narratives in Malaysian Art)』(2012~2019)などを出版している。このような活動は、美術館やギャラリーの主導ではなく、作家、研究者、キュレター、批評家たちが協働で企画・運営する傾向にあり、DIY精神がかたちを変えながら継承されていることがわかる。

2010年以降になると、地方都市における芸術祭の実施や、地域コミュニティに根づいた活動を行うアーティスト・コレクティブも現れる。地方都市であるイポーでは、地元住民や作家を巻き込みながら「イポー国際芸術祭」を開催し、同地域における芸術文化への理解促進を図っている。コレクティブのなかでも、2010年にサバ州ラナウで結成された〈パンクロック・スゥラップ(Pangrok Sulap)〉は国内外で注目されており、廃れつつある先住民の語りや生活を木版画に表現しながら展覧会をとおして伝える活動を行っている。

地域コミュニティにおける活動や交流の場は、マレーシア国内に限定されることなく、日本を含む海外にも広がっている。シュシ・スライマン(1973~)は、2013年に広島・尾道のアーティスト・イン・レジデンスAIR Onomichiに参加した際、築100年の廃屋に出会い、地域住民と協働しながら10年という長い年月をかけ、そこに残されたモノを分解・発掘・分類・整理しながら廃屋の再生をおこなった。

多民族から成るマレーシアにおいて、美術は、国家としての統一性や独自性、あるいは各時代の社会的・政治的な課題や世相を映し出し、新たな時代の方向性を手繰り寄せながら展開してきているといえる。

 

[1] 1946年に再び開校され、現在は南洋美術学院となる。同学院は、2024年よりシンガポール芸術大学を構成する学部(カレッジ)のひとつとなっている。

[2] 当時の建物は、マレーシア観光センターとして残っている。

[3] 当初は〈マレー芸術団体(Majlis Kesenian Melayu)〉としてはじまり、1957年に〈半島画家協会(Angkatan Pelukis Semenanju)〉に改名し、1968年には〈マレーシア画家協会(Angkatan Pelukis SeMalaysia)〉となる。

[4] 「GRUP」とは、「Gerak(動き)」、「Rupa(形態)」、「Ubur(光)」、「Penyataan(声明)」を意味するマレー語の頭文字から成る。

[5] サイモン・スーン「マレーシア:文化的反乱」『Art Studies 01: Cultural Rebellion in Asia 1960-1989』国際交流基金アジアセンター、2015年、60頁。

[6] Redza Piyadasa and Sulaiman Esa, Towards a Mystical Reality: A Documentation of Jointly Initiated Experiences by Redza Piyadasa and Sulaiman Esa (exhibition catalogue) (Kuala Lumpur: Redza Piyadasa and Sulaiman Esa, 1974), unpaged.

[7] 1998年に、旧マジェスティック・ホテルから現在の美術館として建築された建物に移転した。現在、旧美術館は再びマジェスティック・ホテルとして運営される。

[8] 15世紀から20世紀初頭までに、マレーシアへ移住してきた華人男性と現地女性の婚姻により生まれた子孫のうち、男性は「ババ」、女性は「ニョニャ」と呼ばれる。

[9] 「ララン(Lalang)」はマレー語で「雑草」を意味しており、社会の秩序を乱す要素を刈り取ることを象徴する言葉として使われた。

(イメージ画像)

クアラルンプールのペトロナス・ツインタワー

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