前期との明らかな違いは、下地が前期のような麻布ではなく、コウゾから作られる伝統的な「韓紙」になったことだ。紙は、韓国人にとって単なる素材ではなく、伝統家屋の「窓戸紙」、壁紙、オンドル(床暖房)の床に貼る「壮版紙」によって、身体的・空間的に親しんだ伝統文化の一部である。そのような文化的背景から、パクが1983年に京都で開かれた「国際紙会議」に参加したとき、ロバート・ラウシェンバーグら欧米作家には紙というモノへの敬意がないと指摘し、それに対し自分の作品は、行為が素材(紙)と一体化している(同等である)ことを示すため「mixed media on paper(紙のうえの混合技法)」でなく「with paper(紙による、紙とともに)」だと主張した。紙という素材は欧米美術から離れた伝統回帰を示すものといえるが、手法においても、前期《描法》にも残っていた美術家の主体性を、素材への敬意によって超克するものだった。
1「単色画の父」
パク・ソボは「韓国の大父」「韓国アヴァンギャルドの先駆者」と呼ばれるだけでなく、韓国美術の文脈を超えて、「欧米の近代絵画とは別の文脈から出発したアジア諸国の現代絵画」[1]という世界的な観点からも、比類のない芸術的達成をみた美術家といえる。
韓国の「単色画」は1980年代までの日本では、継続的に紹介され、かつ、当時の美術評論家からも注目された唯一のアジア現代美術だった。今(2024年)でこそ韓国美術はインスタレーションや映像作品でも国際的に注目され、「単色画」と「もの派」以外の多様な傾向––特に民主化達成後には国立美術館でも紹介されるようになった1980~90年代の「民衆美術」や、近年では1960~70年代の実験美術(キム・グリムら)、「行為美術(パフォーマンス)」(イ・ゴニョンら)、アースワーク(イ・スンテクら)も研究がすすみ欧米でも紹介されるようになった[2]。にもかかわらず、「単色画」が、抽象美術という領域で、欧米美術には見られない独自性と芸術的完成度を誇ることのできる、全アジアでも唯一といってもいい絵画様式であることには変わりはない。異国的な画題や伝統美術の様式(たとえばインドのタントラ・アート[3])や地方特有の素材に依存することなしに独自性を主張しにくく、一目で欧米美術の模倣と切り捨てられてしまいがちなのが抽象芸術であるからだ。
パク・ソボの最も完成された絵画様式は、すべて《描法》[4]と題された絵画シリーズであり、前期(1973~84年)と後期(1984~2023年)[5]では造形も素材も異なるものの、一貫した作品群といえる。しかし《描法》が、現実世界の悲劇や苦悩を超越した至福の世界に到達するまでには長い道程があった。それは美術家としての造形上の試行錯誤の連続や、美術界に地位を築く努力などの個人史にとどまらず、評論家ソ・ソンロクによれば、朝鮮戦争(1950~53年)が勃発した1950年6月25日に基づく「6・25世代」に特有の歴史だった。それ以前の日本留学組と異なり、韓国全域の地上戦を青年時代に経験することで歴史の激動を生きたことが、無数の死や暴力や文化と文明の破壊を引き起こした既成の価値観への根本的な疑いをもたらしたのである。
2「反国展」とアンフォルメル絵画
パク・ソボ(本名はパク・ジェホン)の父は代書所(依頼によって法的文書を作成する仕事、現代の日本でいう「行政書士」に相当)に勤めており裕福であったが、息子を法律家にしたがった父の希望に従わず、画家を志して弘益大学文学部美術学科で東洋画を学んだ。しかし入学まもなく朝鮮戦争が勃発、さらに父親が病死するという苦難に見舞われる[6]。ソウルまで進軍した北朝鮮軍に連行されプロパガンダ演劇の舞台装置を作らされたが、幸い韓国軍の反抗後も北の協力者として追及されることはなく、一時米軍の仕事に従事する[7]。1952年に釜山で設立された弘益大学戦時校に復学するが、東洋画教授が不在となり、韓国モダニズム絵画の創始者のひとりキム・ファンギと出会って、専攻を西洋画に変える。
戦後はソウルに戻り1954年に大学を卒業し、1956年に、当時唯一の美術研究所だった画家イ・ボンサンによるアトリエ「安国洞美術研究所」を運営する。当時の韓国には、日本時代の「朝鮮美術展覧会(鮮展)」の制度や人脈をひきついだ「大韓民国美術展覧会」(国展)があり、パクも1954~55年に出品していた。しかし1956年6月、大学の友人たちとの4人展に際して、韓国美術史上重要な、「反国展」宣言を公開し美術界に衝撃を与える。翌年には、キム・チャンヨル(金昌烈)らによる、韓国最初の前衛美術団体〈現代美術家協会〉(通称「現代展」)第2回展に参加、1960年の第6回まで出品を続ける。特に1958年にソウルの和信百貨店で開かれた第3回現代展は、韓国におけるアンフォルメル絵画の出発点として美術史上評価される。しかしこの時期の作品はほとんど現存しない[8]。
1961年にはUNESCO傘下の国際造形芸術協会[9]のフランス委員会主催の「世界青年画家パリ大会」に招かれ[10]、《原罪》により展覧会で一等賞を受賞する。
1962年10月には帰国後初の個展を国立図書館で開催、《原形質》シリーズを発表する。1960年代半ばまでのこのシリーズには、具象的な形態を見出すことができないものの、それ以前の純粋抽象とは異なり、黒を基調とする暗鬱きわまりない調子と、人体の骨格や内臓を思わせ奇怪な形態とが、「X線絵画」とよばれ、フランスや日本のアンフォルメル絵画にはない強烈な印象を与える。そこにはやはり過酷な戦争体験が反映されているといえよう。
1960年代後半には、《原形質》と対照的に、韓国伝統の原色「五方色」(黒黄青赤白)と幾何学的形態の「遺伝質」シリーズに転換、さらに当時流行のエアブラシまで使い、人間性の不在を象徴するような、肉体を欠いた服だけの具象的な絵画を制作した。この時期の作品は、その前の激情的なアンフォルメルや暗鬱な《原形質》とも、その後の浄化された造形による《描法》とも断絶が大きく、当時の欧米や日本で流行したハード・エッジ抽象やポップ・アート、オップ・アートなどの様式を試みた過渡期の作品というべきだろう。
3 《描法》の展開1 前期(1973~1984年)
鉛筆と白色は絵を描く材料ではなく、「私」を空っぽにする道具であり、克己の道具だ。[11]
代表作となる《描法》は、1967年からすでに実験を始めていたが、発表は1973年の村松画廊(東京)および明洞画廊(ソウル)での個展からである。初期《描法》は、画布の上に白い絵具を塗り、それが乾かないうちに鉛筆を一定の幅で往復するように動かして線描を残し、その上に再度白い絵具をかけ、また鉛筆で線を残していく作業を繰り返して画面をほぼ均等の形態と素材で覆い尽くすものである。この技法のヒントは、3歳の次男が、小学生の兄の使う国語のノートで四角のマスのなかに一文字ずつ文字を書き込もうとするが、うまくおさまらずにはみ出してしまい、なぐり書きの線で消していくのを見たことである[12]。このエピソードからもわかるように、初期《描法》では確かに作家が鉛筆で線を引いているのだが、それは下地に形状を表出する(描く)というより、何かを消していく動作のようでもある。一見子どものいたずら描きのように見えても、実は、一定幅で鉛筆を動かすのも、絵具の厚みや流動性をコントロールしていき、画面のなかにおさめるのも、書のような高い集中力と、画面を構成する緻密な計算を要する。1978年に発表された《描法》について、パクの絵画のドローイング(線を引くこと)とペインティング(絵具を塗ること)が拮抗する緊張感を、中原佑介は「描線は油絵具をめざめさせる。そして絵具は線に活気を与えるのである」と巧みに言い表した[13]。その結果生まれた画面は、具象形態どころか構図さえもなく均質に広がりながら、手作業のリズムと絵具の素材感が調和して、見る人の視線を導きながら、その身体を心地よく包んでいく。
このようにして生まれた《描法》は、その色彩と素材感が、オ・グァンスによれば、高麗青磁や粉青沙器、李朝白磁を思わせる。特に乳白色の絵具をひっかいたような線描は、釉薬に線を刻んだ朝鮮の磁器を連想させる。それは外国人や骨董品愛好家にうったえる伝統美の再生というより、「描く」「作る」主体的な意識(「近代的」意識といってもいい)を放棄して「修養」「克己」のための手段として絵画をとらえなおす実験の結果だった。
4《描法》の展開2 後期 1984~2023年
1982年以後の後期シリーズは、同じ「描法」というタイトルを使いながら、素材も制作方法もまったく異なる。その制作プロセスは下記のようなものである。
まず紙を一ヵ月以上水の中に入れておきます。それが終わると紙を3枚重ねて、太い鉛筆の芯で横切るように、無心になって一日中線を引きます。その3枚の紙の中間に空気が入っていることがたまにあるんです。それでも14、5時間やりますと空気が追い出されるんですね。[14]
前期との明らかな違いは、下地が前期のような麻布ではなく、コウゾから作られる伝統的な「韓紙」になったことだ。紙は、韓国人にとって単なる素材ではなく、伝統家屋の「窓戸紙」、壁紙、オンドル(床暖房)の床に貼る「壮版紙」によって、身体的・空間的に親しんだ伝統文化の一部である。そのような文化的背景から、パクが1983年に京都で開かれた「国際紙会議」に参加したとき、ロバート・ラウシェンバーグら欧米作家には紙というモノへの敬意がないと指摘し、それに対し自分の作品は、行為が素材(紙)と一体化している(同等である)ことを示すため「mixed media on paper(紙のうえの混合技法)」でなく「with paper(紙による、紙とともに)」だと主張した。紙という素材は欧米美術から離れた伝統回帰を示すものといえるが、手法においても、前期《描法》にも残っていた美術家の主体性を、素材への敬意によって超克するものだった。
当初は多方向の細かい動きの痕跡を示すものだったが、のち暗い色彩と垂直線を基調とした幾何学的構成による、静的でありながら生々しい素材感を生かした高い緊張感をもつ作品へと昇華されていく[15]。もはや「描く」というより紙に行為の痕跡を残すもので、色はあっても、前期のように画布に絵具と鉛筆の線がのるのではなく、線も色も紙のなかに浸透し一体化する。そこで前期《描法》に見られた「線描=drawing」と「塗る=painting」の共存はなくなり、行為と素材は不可分となる。
このとき、驚くべきことに、禁欲的な白や暗色に替わって、赤、ピンク、水色、黄色などのあざやかな色彩が現れる。しかしその鮮烈な色彩は画面の構成と素材感をかき乱すどころか、天国的な幸福感をもたらす。これがパク・ソボが長年の苦闘と修養の最後にたどりついた境地である。
5 組織活動
パクの活動について特筆すべきことは、作品制作において独自の芸術的探究心と完全主義を貫く一方で、1962年から1997年まで(1967~69年を除く)の長きにわたり弘益大学美術学部で教鞭をとるにとどまらず、植民地時代の美術と隔絶した前衛美術の確立と、韓国内部での組織化、欧米や日本向けの国際化の活動に尽力してきたことである。
フランス滞在中には評論家イ・イル(李逸)らを巻き込んで、韓国美術を国際舞台で紹介するために第2回パリ・ビエンナーレ(1961年)への参加をかちとるが、彼が率先して交渉し奮闘努力をしたにもかかわらず出品できず落胆する[16]。しかし同ビエンナーレの第3回展(1963年)には出品、第4回展(1965年)ではコミッショナーを務めた。1969年にはフィリピンのマニラの画廊での韓国美術展の企画に関わり出品もしている。1979年9月にヨーロッパ巡回展が計画されたが、10月26日のパク・チョンヒ(朴正煕)大統領の暗殺による政治的混乱のために展覧会は実現せず、80年には美協会長の選挙で敗れ、のち制作に専念することになる(しかし後述のように、同年の福岡市美術館の「アジア現代美術展」への韓国の出品でも中心的な役割を務めた)。
国内では、1972年から、フランスに発し日本でも行われた無審査の「アンデパンダン展」で新人を発掘、1970年には〈韓国美術家協会〉(美協)に参加、1977~80年には理事長を務めた。1973年からは「ソウル現代美術フェスティバル」を開催、地方でも現代美術を振興するために大邱、釜山、光州でも開催した。
特にパクの美術観と組織つくりの関係で重要なのは、1975年から25年間も続いた「エコール・ド・ソウル」(「ソウル派」)展であり、パクが代表して、アメリカ依存でない国際的に通用する美術運動をめざしたが、1977年より「単色画」が主流となり似た作風の作品が増えて多様性を排除してみえるという問題も起こった。
国立現代美術館で1991年に続き2回目の回顧展を開いた2019年には後進の育成のため「キジ財団」を設立した(2023年にはパク・ソボ財団と改称)。2023年の没後も続く財団のウェブサイトはパクのアーカイブ資料をふんだんに使った充実した内容のものである。
6 日本・福岡との関り
1965年に日本と韓国は「日韓基本条約」を締結して国交を回復し、その流れで1968年に東京国立近代美術館で開かれた「韓国現代絵画展」にパク・ソボは出品しているのが彼の日本での初発表となる。このときに初めて日本を訪れ、韓国出身で「もの派」の作品と理論で日本の美術界に地位を築いていたイ・ウーファン(李禹煥)と会い、長く親交を結ぶ。翌1969年の「第5回国際青年美術家展 アジア・日本展」(西武百貨店池袋店)に出品、1970年の大阪万博では《遺伝質》を展開した立体作品を、建築家キム・スグン設計の韓国パビリオンに出品したが[17]、その作品は反政府的とされ撤去された。
この過程で、日本語が堪能だったパクの日本での活動はさらに活発になり、1973年に村松画廊で日本初の個展を開くに至る。そのパンフレットに執筆したのは、先に引用したように、戦後日本の代表的な美術評論家のひとりである中原佑介であり、日本のイ・ウーファンと中原佑介、韓国のパクの協力態勢で、のちに「単色画」とよばれる韓国の絵画が、歴史に名高い「5つのヒンセク(白色)」展(1975年)以後に東京画廊で継続的に紹介されることになる[18]。
福岡アジア美術館の前史といえる福岡市美術館の最初の「アジア現代美術展」では、パクは1980年6月に展覧会準備のための会議に参加している[19]。彼はこの時点ですでに30回以上も来日経験があった[20]。前述のように韓国美術協会理事長選挙で敗れているにもかかわらず、「前韓国美術協会理事長」として韓国代表を務め[21]、かつ、韓国の作品集荷場所もパクの自宅となっていることから、理事長退職後もパクが福岡市美術館のアジア美術展のための実質的な事務局として大きな力をもっていることがわかり、作家の選考も彼が主導する「エコール・ド・ソウル」出品者が多かったのも当然だろう[22]。
7 自我の超克
パク・ソボらの抽象絵画は、2015年のヴェネチア・ビエンナーレで紹介された以後の「単色画フィーバー」によって国際美術市場でもさらに評価が高まっているが、前述のように朝鮮の伝統陶磁器を思わせる美意識から、いかにも「東洋的」「韓国的」ステレオタイプで語られる恐れがある。確かに、パクの代表的かつ最も長命のシリーズ《描法》にみる、近代西洋的な「主体」(あるいはその主体による「表現」「表象」の放棄)と自然との一体感から、イ・ウーファンが作品と理論両面で実践する、ほぼ手を加えない自然素材を組み合わせるか配置するだけの「もの派」に共通する「東洋的」な芸術観があるといえるし、二人の交友から両者が影響しあった可能性はあるだろう。しかし、《描法》が決定的に「もの派」と異なるのは、前述のように、反知性的な単純な作業の反復の痕跡に見えながら、実は手の動きや素材や構図を完璧にコントロールして、精緻で完成度の高い画面を作り上げる知性と意志に貫かれていることである。
パクの親友で「水滴」シリーズで知られる画家キム・チャンヨルがぼさぼさの髪とヒゲで仙人のような超俗的な風貌をもつのと対照的に、パクの風貌はおよそ「芸術家」らしくも「東洋的」でもない。目鼻立ちがはっきりしており強固な意志を感じさせるが、きちんと髪をなでつけて背広を着ていると有能なビジネスマンか政治家のように見える。実際、彼の過剰な自信やリーダーシップ、完璧主義はしばしば周囲の美術家との軋轢を起こしたことは「現代展」や「美協」でも見られたし、パク・チョンヒからチョン・ドゥファン(全斗煥)に続く独裁政権に激烈な抵抗を行った「民衆美術」の作家たちから、権力志向の体制派として批判された[23]。
日本植民地時代の残滓である保守的な「国展」に反逆して「前衛美術」の誕生を告げ、驚異的な行動力で、教育、展覧会企画、国際発信などで韓国美術界に大貢献し、晩年には国内外で不滅の評価を築いたとはいえ、パク・ソボの人生は必ずしも順調だったとはいえない。父親との死別、朝鮮戦争での死と隣り合わせの経験、極貧生活、戦争や火災での作品の消失、展覧会企画の失敗、画家どうしの内紛などを経ながらも、いやこれらの人生の苦難があったからこそ、描く側も––そして見る側も、作品に向き合うことで精神を浄化していく《描法》が展開したのである。その長年の探究と独自性は、やはり全アジア現代美術史でも稀有なものといえよう。
(黒田雷児)
主要参考文献
서성록『재원 미술작가론 8 박서보(앵포르멜에서 단색화까지』(재원、2000년)[ソ・ソンロク『ジェウォン美術作家論8 パク・ソボ(アンフォルメルから単色画まで)』(ジェウォン、2000年)]
ソボ美術財団企画『パク・ソボ《描法》 1994―2001』(ジェウォン、2001年)
Kate Lim, Park Seo-Bo: from Avant-Garde to Ecriture (Singapore: BooksActually, 2014)
『Empty the Mind: The Art of Park Seo-Bo』、(東京画廊+BTAP、2016年)
パク・ソボ財団ウェブサイト https://parkseobofoundation.org/
注
[1] 峯村敏明「中断と潜伏」、朴栖甫展図録(東京画廊、1994年) ただし執筆は1991年で同年の国立現代美術館とドゥソン画廊の個展図録が初出。のち筆者により「隠蔽されるべき全体」と改題。
[2] アメリカでの巡回展図録参照。Only the Young: Experimental Art in Korea, 1960s-1970s, Kyung An, Kang Soojung (ed.), (New York: Guggenheim Museum, 2023)
[3] 1960年代半ばの伝統回帰的な思潮のなかで展開した、ヒンドゥー教の抽象的な図解(タントラ)などに基づく絵画や彫刻。例としてサントーシュやビレン・デの絵画がある。
[4] 韓国語では日本語と同じ漢字「描法」(ミョボプ)であるが、海外向けには、ロラン・バルトの本のタイトル『零度のエクリチュール』から来たフランス語のEcritureが使われる。本来は文字を書くこと・筆跡・書き方・書かれたものという意味。
[5] オ・グァンスによれば前期は1973~76年と1976~84年、後期は1984年5月~1994年と1995~99年にさらに分かれる。「描法の段階 パク・ソボ《描法》シリーズについて」、ソボ美術財団企画『パク・ソボ《描法》 1994―2001』(図書出版ジェウォン、2001年)
[6] 父の没後は、母親が実家の家業だった膏薬の製作販売や健康相談で家族の生計を支えた。
[7] 戦後には陸軍歩兵学校で訓練を受けなければならなかった。
[8] 引っ越すときに置き場がなく放棄した自分の絵がバラックの屋根に使われていてショックを受けたというエピソードもある。
[9] International Association of Art(IAA)のこと。のち福岡市美術館のアジア美術展の創成に大きな役を果たす。
[10] パリに到着後に初めて会議が延期されたことを知り、展覧会で賞金を得るまで10か月もパリで極貧生活を送らなければならなかった。
[11] パク・ソボ「断想ノート」、『画廊』(1981年秋) ソ・ソンロク『パク・ソボ(アンフォルメルから単色画まで)』(ジェウォン、2000年)に引用、68頁
[12] 下記の動画にその場面の再現が含まれている。
KBS製作「パク・ソボの《描法》はどのように始まったか」(韓国語のみ)
EBS製作、ギジ財団提供「パク・ソボの生と芸術」(英語字幕あり)
[13] 朴栖甫展パンフレットのエッセイ(東京画廊、1978年)
[14] 無記名「Artist 第4回 Park, Seo-Bo」『月刊ギャラリー』(2006年1月)、50~56頁
[15] オ・グァンスは後期《描法》もまた新羅や原三国時代(紀元前1世紀~4世紀)の土器を思わせるという。
[16] パリ・ビエンナーレ出品の韓国作家は、キム・チャンヨル、チャン・ソンスン、チョン・チャンソプ、チョ・ヨンイク。コミッショナーはキム・ビョンギ 。パク・ソボが選ばれなかったのが、彼を嫌うキム・ファンギによるものかどうかは不明。
[17] 大阪万博の韓国パビリオンについては下記を参照。黒田雷児「おうちで知りたいアジアのアート Vol. 13 東京オリンピックと大阪万博のリュ・キョンチェRyu Kyungchai アジア美術国際化のはじまり」、福岡アジア美術館公式ブログ『あじびな日々』(2021年12月3日)
[18] 東京画廊で個展を開いた単色画作家は、パク・ソボのほか、イ・ウーファン、キム・チャンヨル、ユン・ヒョングン(尹亨根)、チョン・チャンソプ(丁昌燮)がおり、それ以外の韓国作家でもキム・ファンギ、キム・イギョン(金益寧)、シム・ムンソプ(沈文燮)、イ・ガンソ(李康昭)、イ・ミョンミ(李明美)がいた。
[19] なお11月の開会時には開梱責任者として再度来福、シンポジウム参加者の美術評論家のイ・イル(李逸)とともに開会式に出席している。
[20] 「アジアからの友人 韓国 朴在弘さん」、『西日本新聞』(1980年11月13日)
[21] 開会時の肩書は「前韓国美術協会理事長(IAA韓国委員会理事長)、前韓国芸術文化団体総連合会副会長、現韓国美術協会顧問、現Ecole de Seoul運営委員」だった。
[22] 図録用に提出された作家略歴では、27人中の23人が「エコール・ド・ソウル」展に出品している。
[23] 2022年の光州ビエンナーレの際に「パク・ソボ賞」が制定されたが、民主化運動の聖地である光州には、独裁政権にすりよった作家の名を冠した賞はふさわしくないと抗議運動が起こり、1回で中止になった。https://namu.wiki/w/박서보