[5] Robert Storr, Nalini Malani (Mikan, 2008), n.p. キラン・ナダル美術館(ニューデリー)の回顧展の図録の冒頭にも引用された重要な言葉。Nalini Malani: You Can’t Keep Acid in a Paper Bag 1969-2014, Kiran Nadal Museum of Art (New Delih, 2014).
[9] Thomas McEvilley, “Locating the Femaile Gaze,” Nalini Malani (Milano: Edizioni Charta, 2007), 19. 出典はKamala Kapoor, “Missives from the Streets,” Art and Asia Pacific, Vol. 2. No. 1 (1995), 42とあるが見つからないので別の出典か。
私の努力はすべて見えないものを見えるようにすることだ。それがアーティストとしての私の職務だ。(ナリニ・マラニ 2001年[1])
●国際的な評価の源
ナリニ・マラニは、現在、世界各地の国際展への招待や美術館での個展により、もっとも国際的に活躍し高い評価を得ているアジアのアーティストのひとりである。2023年、彼女は「京都賞」を受賞したが、この賞を受賞したアジア人美術家は、イサム・ノグチ(1986年)とナム・ジュン・パイク(1998年)だけである。この二人がどちらもアメリカを拠点とした男性であることから、インドに拠点をおく女性作家としてのマラニの受賞はきわめて大きな意義があるといえよう。
マラニは画家として出発しながら、映画・演劇・アニメーションなどの時間的手法を取り入れ、それらを総合した壮麗なインスタレーションを制作している。彼女がインドで最も早くインスタレーションを始めた美術家の一人であるのは確かであるが、国際展の常套手段となったスペクタクル志向に追随したものではなく、複雑なテーマの表現や観客の参与を求める独自の空間的・演劇的な動画表現は、1990年代初頭から見られるものなのだ。
彼女の国際的な評価を高めているのは、表現・展示手法のインパクトによってだけではなく、女性–––それも過去の歴史から現在も続く政治・社会状況のなかで差別され虐待されてきたが、自ら苦痛や抗議の声を発することのなかった女性たち–––に声を与えようとする、今もなお全世界の最重要かつ緊急の課題に挑戦的に取り組み続ける強靭な意志によってである。
●影絵インスタレーションへの展開
カラーチー(現パキスタン)に、シーク教徒の母親と弁護士の父親から生まれたマラニは、1947年のインドとパキスタンの分離独立によって、ヒンドゥー教徒がインドへ大移動するなかで、ボンベイ(現ムンバイ)、のちカルカッタに移り、1954年からボンベイに定住する。1964~69年、サーJ.J.美術学校で学ぶが、ヨーロッパ式のアカデミズム教育に飽き足らず、ブラバイ記念研究所にただひとりの女性メンバーとしてアトリエを得て、ガイトンデ、タイエブ・メータ、M. F.フセイン、ナスリーン・モハマディらの美術家、音楽家、舞踊家らと交流し、演劇のデザインを制作する。後年に重要な展開を見せる映画との関心もこの頃から始まり、インドやソ連の映画を見て、S. M. エイゼンシュテインやルドルフ・アルンハイムの映画理論を学んだ。1966年に初個展を開く。1969年には著名な画家アクバル・パダムシーによる視覚交流ワークショップ(Vision Exchange Workshop, VIEW)に参加し、映画と写真作品を制作する。
1970~72年、左翼学生や労働者が蜂起した1968年の「五月革命」の余波があるパリに留学し、サルトル、ボーヴォワール、ロラン・バルト、ジャック・ラカンらの哲学に接し、人類学者レヴィ・ストロースや言語学者ノーム・チョムスキー、シュルレアリスム詩人・人類学者のミシェル・レリスの講義に出席する。シネマテーク・フランセーズではアラン・レネやジャン・リュック・ゴダールらの「ヌーヴェル・ヴァーグ」以後の尖鋭な映画を見る。美術領域では、「絵画」という“ブルジョア的”な制度を徹底的に解体しようとした「シュポール/シュルファス(支持体/表面)」や、ディエゴ・リヴェラら革命後のメキシコにも影響を受ける。これらのパリでのラディカルで実験的な文化の経験が、マラニの作品世界を大きく拡大することになった。
母国での活動を選んだマラニは、帰国後も、ムスリムのスラムのドキュメンタリー映画を撮影、機織りにかかわるジェンダーの問題を扱った映画『タブー』などの映画を制作する。1978年からはボンベイの下町ロハル・チョウルにアトリエを構え(2003年まで)[2]、工務店や日用品の市場が多い庶民の生活は作品の重要なテーマになる。
絵画制作においては、インドの美術史の転機を画するふたつの重要な展覧会に関わる。ひとつは、1980~81年、ボンベイの「ひとびとの場所」展で、〈進歩的美術家グループ〉のような抽象傾向が主流だったインド美術界に、インドの伝統絵画も参照した具象表現を復権させた展覧会に、唯一の女性作家として出品したことである。もうひとつは、インドで初となる女性作家企画による女性作家だけの「鏡の向こうに」展(1987~89年)に参加したことであり、圧倒的に男性中心だった美術界に風穴を開けた。
その後、マラニは、インスタレーション、演劇、映像、パフォーマンスなど複数メディアの併用による、時間性をともなう作品へと踏み出していく。1991年のジェハンギール・アート・ギャラリーでの個展「ロハル・チョウルの路地」で初めて透明シートを吊るして観客がその間を通り抜けるようにしたが、さらに大胆な実験は1992年のギャラリー・ケムールドでの個展「欲望都市」に見られる。壁も床も使う最初のインスタレーションとなっただけでなく、ギャラリーの壁に直接描く絵画を公開制作し、かつ、最後にはその作品を自ら消していくという、観客との対話を伴うパフォーマンス的な試みをおこなったのである。これは単に商品としての絵画を否定しただけではなく、北西インドのナトドゥワラ[3]の19世紀の貴重なフレスコ壁画が保存措置なく損傷されるままになっていたことへの抗議の意味をこめたものだった。
さらに後年のパフォーマンス的表現につながる転機となるのが、1993年、俳優であり演劇監督であるアラクナンダ・サマートに招かれ、彼女の演出による、ハイナー・ミュラーの劇《メデアマテリアル》の上演に参加したことだ。そこで彼女は舞台装置として、劇の登場人物、植民地主義、ボンベイ暴動[4]などを描いた《略奪された岸辺》(福岡アジア美術館所蔵)と、劇の記録による映像作品を制作した。この会場となったマックス・ミュラー・バワンは、ボンベイ中心部に位置してガラス窓で外とつながる空間であり、公演のときにマラニは会場の外の路上に水を撒いて周囲のネオン光やオートバイのヘッドライトの反射までも演劇にとりこんだ。
1996年には、男性のふりをした女性の労働を描いたベルトルト・ブレヒトの小説『ジョブ』の演劇公演のためのインスタレーションで、初めてストップモーション・アニメーションを用いた。またこの舞台装置として、裏側から絵を描いた透明樹脂シートの円筒を用い、それはのちの大規模なインスタレーションに発展する。翌1997年の《発掘された図像》では、パキスタンからの移動時の家族の記憶こめられたキルト作品に観客に安全ピンを刺してもらい平和を祈願するという観客参加の試みをおこなった。
1998年には、アムステルダムの実験映画祭で、最初のビデオ・インスタレーション《トバ・テク・シンの思い出》を発表する。インド政府の核実験に抗議したこの作品が翌年にボンベイで展示されたときには政治的テーマから閉鎖されかけたが、最終的には公開され、美術評論家からは批判されたものの、10日間にあらゆる階層の25,000人が来場して大きな注目を集めた。
1998年にはで、ヒンドゥー至上主義を問いかける《聖と俗》において、透明シートによる4つの円筒に描いた絵を回転させその影を投影する「影絵芝居」を初めて行う。のち2001年の《罪》で光源がビデオ映像になりナレーションが重ねられることで、現在の「ビデオ・影絵芝居(video/shadow play)」とよぶ大規模なインスタレーションへと展開する。回転する透明シートの円筒に描いた絵、その影、複数のビデオ映像、さらには観客の影が、相互に出会い、重なり合い、離れて消え、相互に思いがけない関係を作り出し絶えず変化し続けるこの手法は、複雑なテーマを総合し、視覚的にも身体的にも観衆を巻き込むために、マラニが長年の実験の末にたどりついた究極の表現手段である。
そのいっぽう、生身のパフォーマーの映像を使った実験は、1999年から翌年にかけて、福岡アジア美術館のレジデンスで制作した《ハムレットマシン》(1999~2000年 福岡アジア美術館ほか所蔵))に展開する。壁3面と床の塩の上に投影される4チャンネルの映像インスタレーションは、ヒンドゥー原理主義、ファシズム、グローバル資本主義などのテーマを集約して高い評価を受け、世界各地で展示される(2013年時点で14か国19会場)。
このような映像への一貫した関心は、2016年から、タブレット(iPad)で描いた絵にアプリで自作の音楽をつけたアニメーションをインスタグラムや公共空間で公開するという、安価かつ最新のテクノロジーとメディアを用いた最近の作品にも続いている。
●多様な引用・参照からなる「女性」のテーマ
もし女性の思考過程にもっと注意が向けられるなら、進歩といっていいものに到達できるかもしれない。(ナリニ・マラニ)[5]
マラニの扱うテーマ、また素材となる図像・文献は、膨大な読書量と旺盛な観察眼により、多様極まる。まずテーマについていえば、インド・パキスタンの分離に伴なう悲劇(1947年)、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒(ムスリム)の暴力的な対立から起こったボンベイ暴動(1992年)やグジャラート暴動[6](2002年)、チェルノブイリの原発事故(1986年)、インド・パキスタンの核兵器開発競争などである。参照された文献は、インド文化では、神話、叙事詩『ラーマーヤナ』、『バガヴァッタ・プラーナ』(ヒンドゥーのクリシュナ神への賛歌)、12世紀の女性詩人アッカ・マハーデヴィー、パキスタンの作家サーダット・ハサン・マント(1912~55年)、ヨーロッパ文献では、ギリシャ神話、ドイツの劇作家ハイナー・ミュラー(1929~95年)の『メデアマテリアル』『ハムレットマシン』、ベルトルト・ブレヒト(1898~56年)の『ジョブ』『肝っ玉母さんとその子供たち』、小説家クリスタ・ヴォルフ(1929~2011年)の『カサンドラ』およびこれらの元となるギリシャ古典劇などである。引用される図像は、インドの伝統美術、ベンガル地方のフォーク・アートであるカーリガート絵画、19世紀インド近代画家ラージャー・ラヴィ・ヴァルマー[7]、ピーテル・ブリューゲル父(1525/1530~1569年)、スペインの画家フランシスコ・ゴヤ(1746~1828年)、インドの建築家チャールズ・コレア(1930~2015年)、イギリスのルイス・キャロル(1832~98年)の『不思議の国のアリス』、ロシアのアンドレイ・タルコフスキー(1932~86年)の映画『ストーカー』(1979年)など。日本のものでは《鳥獣戯画》、北斎、さらには1990年代の不条理ギャグマンガにも及ぶ。
古代と現代、東洋と西洋、高級芸術と大衆文化、歴史と想像などの対立項を攪拌する、これらの多様・雑多で、容易にはストーリーや文脈を読解しがたい図像を貫くのは、「女性」というテーマである。特に、ギリシャ古典劇での、故郷を征服され夫に裏切られ復讐のためわが子を殺すメデアや、預言を信じてもらえないトロイアのカッサンドラ、拉致され監禁されたのに貞淑を疑われ夫ラーマに離縁されたシータのように、強い意志や能力をもちながら植民地主義や家父長制の犠牲者となった女性に焦点があてられる。インド・パキスタン分離に伴う一家の移動の時点ではマラニはまだ幼児だったが、この大移動のなかで、両国で10万人近い女性が拉致され強姦されたことから、ナショナリズムや宗教原理主義、カースト制度の犠牲となるのが女性であったという認識がマラニの全活動を貫くことになる。
女性というテーマは、歴史や政治や家族という社会的存在としてだけでなく、生物的な存在としてもとらえられる。そのような観点は、前述のVIEW時代である1969年に制作された映像作品(最近発見され展示されるようになった、女性の自慰を扱った《オナニズム》からもうかがえる。暗示的な映像とはいえ、男性の欲望の対象としてではなく女性自らの性欲を扱った点では世界的にも先駆的な作品といえよう。生物学的な関心は、しばしば登場する、脳、内臓、脊髄、臍の緒、胎児、男性器などの解剖学的な形態に見られる。それは人間の生を、精神や観念の作用以前の、現実の世界に存在する生物としてとらえようとする欲求からくるものだろうか。あるいは、身体を常に内部の生理と外部の現実との相互作用として考えるからだろうか。医学書の図解[8]のような即物的なイメージのいっぽうで、マラニの描く人物像は、インドのガラス絵の伝統を生かした、透明シートに裏から描いた絵画で明示されるように、水彩画ないしはそれを思わせる絵具の流動性を生かしたものであり、「ミュータント」と名付けた作品群では、人体は形をとどめながらボリュームも輪郭線も失った影や幽霊のようだ。それもまた個々の身体と社会、歴史、環境、自然の相互浸透を示すものであるとともに、暴力への傷つきやすさの表現にもなっている。
しかしマラニの作品における女性は決して一方的な被害者ではない。2007年の《狂ったメグの思い出》で使われた、料理や家事の道具を持って戦いにいどむブリューゲルの《悪女フリート》(1561年)のように、女性は暴力や無視・排除に抗議して戦う主体でもある。《語りなおされる物語》(2003年)という作品タイトルには、既存の歴史や物語に自分の想像と組み合わせて、既存の物語を再編することで女性を解放する希望がこめられている。
このような多様な図像の混在と変形は作品の読解を困難にするため、鑑賞の入り口としては、映像インスタレーションと平行して続けられた絵画作品を見ていくのがいいかもしれない。《他者を分裂する》(2007年)は、作者によれば、上記の『ジョブ』の女性、メデア、シータ、「肝っ玉母さん」やインドを象徴する女神(母なるインド)など15年間のテーマが、14枚にもなる巨大な画面に集大成されている。臍の緒でふたりの幼児をひっぱる女性が進んでいく世界は、彼女をとりまく図像・自然・歴史・社会の一大パノラマなのだ。
マラニは京都賞受賞時のインタビューで、作品制作を続ける動機を訊かれ、「テーマがあまりに大きすぎてひとつの作品ではカバーできない」からと答えている。また別のところでは「ひとつの主題はひとつだけの枠組みでは絶対におさまらない、だから、同じ図像を複製したり再利用したりして、同じ考えをいろいろな手段で繰り返さないといけない」ともいっている[9]。78歳(2024年時点)の今もなお、世界に向けたメッセージと表現の実験への意欲は衰えることを知らない。
●福岡との関係
マラニの日本との関わりは古く、航空会社に勤めていた父とともに1958年に日本を訪れている。最初の日本での発表は、「M.ナリニ・ジャイラム」名(ジャイラムは父親の姓)による、1969年の であり、アンフォルメルや民俗的モチーフのモダニズム的絵画4点を出品している[10]。
マラニは福岡アジア美術館が開館した1999年度の最初のアーティスト・イン・レジデンスの参加者である。その滞在中に制作した《ハムレットマシン》は、福岡の舞踏家・原田伸雄が出演した4チャンネルの映像インスタレーションで、その写真は2017~18年のポンピドゥ・センターでの回顧展図録の表紙や、広報用バナーにも使われた。同作品は福岡アジア美術館に寄贈され、2013年にを受賞したときには3面を正面につなげて再構成された。またもうひとつの滞在制作作品であるストップモーション作品《しみ》(1999~2000年)のほか、アジア文化賞受賞時に連作版画《カサンドラの贈りもの》(2009年)7点、京都賞受賞時にデジタル動画《いのち》(2023年)もアジ美に寄贈されている。
これらの寄贈は、マラニが福岡アジア美術館のレジデンスのみならず活動全体を高く評価している証拠といえよう。彼女が第4回福岡アジア美術トリエンナーレ2009の図録に寄せたエッセイにはこうある。
福岡アジア美術館はまた、アジアの作家同士を結びつけることで、彼らの制作活動にも大きな影響を与えてきました。今日国際的なアートシーンで重要な位置を占めるようになったアジア作家の多くは、10年前、アジア美術館から彼らのキャリアのはじめの一歩を踏み出したのです。アジ美のないアジア美術なんて想像もできません。
(第4回福岡アジア美術トリエンナーレ2009)図録、195頁)
(黒田雷児)
[1] Nalini Malani, Stories Retold (New York; Bose Pacia Gallery, 2004), 1.
[2] このアトリエを訪れた福岡アジア美術館学芸員ラワンチャイクン寿子のエッセイは下記の同館ブログを参照。ムンバイの裏通り(展示中のナリニ・マラニ《略奪された岸辺》に寄せて)
[3] インド北西ラージャスターン州の都市で独自の細密画の伝統がある。19世紀には西洋絵画の影響を受けた。
[4] 1992年12月から翌年1月にかけて、アヨディヤのモスク(イスラーム教の礼拝堂)がヒンドゥー教徒によって破壊されたことに端を発し、ボンベイで起こったヒンドゥー教徒とムスリム(イスラム教徒)の暴力的衝突。極右のヒンドゥー原理主義団体が扇動したことで900人に及ぶ犠牲者の大半がムスリムだった。
[5] Robert Storr, Nalini Malani (Mikan, 2008), n.p. キラン・ナダル美術館(ニューデリー)の回顧展の図録の冒頭にも引用された重要な言葉。Nalini Malani: You Can’t Keep Acid in a Paper Bag 1969-2014, Kiran Nadal Museum of Art (New Delih, 2014).
[6] 2002年2月、グジャラート州で列車の火災で聖地巡礼者を含むヒンドゥー教徒が多数死亡した。それを親パキスタンのムスリムのせいとしたヒンドゥー原理主義団体が、報復として多数のムスリムを襲撃し女性を強姦した事件。3か月続いた暴動の1000人以上の死者の大半がムスリムだった。
[7] 「アート横断Ⅱ インドのビデオ・アート展」(福岡アジア美術館、2004年)で展示されたインスタレーション《多様性の中の統一Unity in Diversity》(2003年)の映像でヴァルマーの油彩画《音楽家の銀河Galaxy of Musicians》(1893年)が使われた。
[8] 高校時代から生物学に興味を持っており、医学用の図解を描いて生計の手段とするという口実で美術大学への進学を父親に許されたという。
[9] Thomas McEvilley, “Locating the Femaile Gaze,” Nalini Malani (Milano: Edizioni Charta, 2007), 19. 出典はKamala Kapoor, “Missives from the Streets,” Art and Asia Pacific, Vol. 2. No. 1 (1995), 42とあるが見つからないので別の出典か。
[10] インドの他の出品作家はAnandmohan Naik, Barwe Prabhaka, Darshan。インド側選考機関は不明。日本からは原健、加藤アキラ、木村光佑、原口典之、柏原えつとむ、安斉(安斎?)重男、福田勝凡らが出品。