[3] D. M. Reyes, “Miracle of Rare Device,” The Life and Art of Botong Francisco, Patrick D. Flores (ed.) (Quezon City: Vibal Publishing House, 2010), 72.
[4] エダデスがシアトルのワシントン大学在学中には、ヨーロッパの前衛美術のアメリカ初の本格的な紹介でありマルセル・デュシャンの絵画のスキャンダルで名高いニューヨークでの「アーモリー・ショー」(1913年)が話題になっていた。しかしエダデスはダダ的傾向には向かず、同展に見られた「アッシュ・カン派」による市井の人々のリアルな姿を描く作品のほうに影響された。Rod. Paras-Perez, “Once More with Feeling,” Edades and the 13 Moderns (Manila: Cultural Center of the Philippines, 1995), n. p.
[5] エダデスはマスコミでの論争や寄稿を通してフィリピンの知識人や一般市民に近代美術の価値を普及させた。Alice G. Guillermo, “The Triumvirate,” The Life and Art of Botong Francisco, 99. エダデスの「近代派」擁護は下記を参照。ビクトリオ・エダデス「アカデミズムからの解放」、後小路雅弘・ラワンチャイクン寿子編「東南アジア 近代美術の誕生」図録(福岡市美術館、1997年)、202~204頁
[9] 1952年のヴェネチア映画祭のあと世界各地で上映された。また2015年のヴェネチア・ビエンナーレのフィリピン・パヴィリオンで紹介された。下記を参照。Tie A String around the World, Patrick D. Flores (ed.) (Manila: The National Commission for Culture and the Arts, The Department of Foreign Affairs, and The Office of Senator Loren Legarda, 2015).
[17]Realism in Asian Art (아시아리얼리즘), Kim Inhye and Joyce Fan (ed.), (The National Museum of Contemporary Art, Korea, and The National Art Gallery, Singapore, 2010), 34–35に作品掲載。
「国民画家」という問題
カルロス・フランシスコ[1](愛称は「ボトン」[2])は、没後の1973年にフィリピン政府から「国民画家」の称号を授与された。当サイトの「重要作家」には、「国民画家」と認定されたか、そうでなくても、政府機関・大学・駅や空港などの公共の場で壁画や彫刻を残したりした作家は少なくない。しかしその中でも、このフランシスコほど「国民画家」の名にふさわしい美術作家は多くはない。なぜなら、彼が、フィリピン近代美術における、脱西洋アカデミズムとしてのモダニズムの始祖のひとりであるだけでなく、先輩画家のフェルナンド・アモルソロ(1892~1972)の牧歌的ロマンティシズムを超えて、まさにフィリピンという「国家」の独立と発展に向かう歴史を、わかりやすい構成と描写により公共空間の壁画などで描き続けたからである。彼はフィリピン美術の巨匠であるにもかかわらず、大規模な個展を一度も開かなかった[3]。時空間が限定された展覧会における発表よりも、公共空間や出版物によって自分の芸術を広範な大衆に届けることを選んだのである。
パブリック・アートとしての壁画
フランシスコははじめフィリピン大学美術学部で学ぶが、写実を基本とするヨーロッパ式アカデミズム教育に満足できなかった。しかし聖トマス大学で教えていたヴィクトリオ・エダデス(1895~1985)に才能を見出され、友人のガロ・オカンポ(1913~85)とともに〈三人組(Triumvirate)〉とよばれるチームで壁画制作に参加するようになる。アメリカのシアトルで美術と建築を学んだエダデス[4]は、1928年に帰国して、様式においても画題においてもアカデミズムに反する荒々しい筆触でリアルな労働者を描いた作品を発表し、フィリピン美術界の保守派に対する現代派の論客となった[5]。1934年に〈三人組〉が完成したキャピトル劇場の壁画《立ち上がるフィリピン》は、保守派と現代派の激しい論争を引き起こしたが、やがてフィリピンの芸術家や一般市民にも受け入れられた、フィリピン最初の「近代絵画」となった[6]。
のちフランシスコは、1938年、エダデス、オカンポらと「13人の現代人たち」のひとりとして、フィリピンの近代美術運動を推進していくことになる。奇しくもこの運動は、1935年にフィリピンが「コモンウェルス」として、アメリカの植民地からの本格的な独立の道を歩み始めた時期に起こり、彼らの壁画もまたそのナショナリズムの流れのなかで地元民の独自の文化を称揚する役を果たしたのである[7]。
エダデスは、革命後のメキシコで隆盛した、リヴェラ、オロスコ、シケイロスら巨大壁画で知られる画家を敬愛していた。エダデスから伝えられる民衆の歴史や闘争を描いたメキシコ壁画の情報はフランシスコにも大きな影響を与えた。フランシスコの経歴で興味深いのは、新聞挿絵の制作であり、人物の服装や表情を記憶し細かく描き分ける能力が、複雑な歴史状況や民俗的生活を伝える壁画に役立ったのである。実際、フランシスコ単独の壁画や大作絵画では、やや通俗的といえるほどわかりやすく人物を描き分け、特定の役を演じさせている。相当なスピードで完璧に描く能力[8]も大作に発揮された。
このフランシスコの能力は、映画のセットや衣装などのデザインにも大いに役立った。初めて国際舞台で上映されたフィリピン映画である、マニュエル・コンデ監督の映画『ジンギス・カン』(1950年)[9]では「プロダクション・デザイン」(美術監督)をまかされて、脚本の共同執筆を含む多数の映画制作にかかわり、映画という大衆的なメディアを通して、ますますフランシスコの美術活動は「国民的」に認知されていくのである。
あいにく1930年代の壁画はほとんど失われ、前述の《立ち上がるフィリピン》も第二次大戦で破壊された。フィリピン国際博覧会のために委嘱された《フィリピン500年史》(1953年)も現存しない。しかしマニラ市役所の、縦2.7m、横の総計20mに及ぶ最大級の《フィリピン闘争の歴史》(1964年)は現存している。福岡アジア美術館所蔵の《教育による進歩》(1964年)も、もとは個人宅の壁画だったが、画布に描いて壁に貼られていたため、画布の状態で残されている。
様式
これらのフランシスコの絵画様式は、決してヨーロッパ正統のアカデミックなものではない。エダデスが壁画制作において心がけたのは、建築と絵画の平面性が調和することであり[10]、彼のフランシスコ評にも同じ様式を指摘している。
彼(フランシスコ)の壁画は「平面的なのに非常に奥行きがある」中国絵画の精神を把握している。彼は西洋の美術家の伝統的な方法、ただひとつの固定した視点から描く方法を捨てた。彼は12世紀の中国やペルシャの画家のように作品の空間をゆがませる。遠くにある、画面上部にある人物も物体も、前景にあるものと同じ大きさで描かれ、それによってタペストリーのような効果を生み出す。(ヴィクトリオ・エダデス「力強い美術を求めて」[11])
人体の造形も、単純化され、画面内部にすわりがいいように変形されており、人物も事物も風景も建築もすべて薄い陰影をもって描かれるが、全体としては極端な明暗差なく、かつ前景も後景も同じ色調で塗られているために、浅い空間につめこまれた人物や物体がすべて明るい均質な光のもとにあるように見える。ここにはエダデス以後のモダニズム絵画、メキシコ壁画、あるいは世界各地で見られるアール・ヌーヴォーやアール・デコの装飾的な様式の影響もみることができるが、雑誌などの挿絵画家から出発したフランシスコが、劇的な明暗や奥行きの表現よりも、通俗的であることをおそれずに人物の表情や服装や役割をわかりやすく伝えるためにこのような平明な様式を選んだのかもしれない。
題材としての「民衆」
そのことは「ボトン」という愛称で親しまれた「国民画家」としての性格に関わるが、フィリピンでいう「国民」とは、多数の民族と言語から成立しており、日本のような異なる民族・国家の侵略や支配を受けることが少なく、比較的少数の民族が多数を占める国の人々とは同様に考えられない。しかも、現代フィリピンの美術家は、300年以上という全アジア最長の、スペインによる植民地支配を受けたため、アジアに広く見られる、西洋と異なるアイデンティティの表現としての多様な民族や宗教に共有される伝統文化を提示することが困難である――西洋のカトリック文化がすでに血肉化された伝統になっているからだ。
だからこそ、フランシスコの場合は、植民地化以前の無垢な「民衆」と、独立以後の主体的な「国民」の歴史を描くことが、フィリピンのアイデンティティを回復させる手段だった。そこで彼にとっての「国民」とは、ホセ・リサールのような独立運動の闘士から、独裁者マルコス大統領までの英雄だけでなく、また先輩画家のアモルソロのようにもっぱら農民をロマンティックに描くのでもなく、文化・芸術・科学・教育関係者らの知識階級、農業[12]や漁業、商業に従事する市井の人々、キリスト教や土着宗教への信仰やその祭祀などの地域文化の担い手まで含めた総体を「国民」として描いたのである。
特にフランシスコが終生変わることなく愛してきたのは、彼の出身地であるアンゴノという町の民衆の文化である。アンゴノはマニラの東約30km(車で1時間半ほど)のラグナ湖北岸の町で、今では芸術家の町として知られる[13]。フランシスコはこの村の人々や自然を描き続け、カトリックの祭礼のための山車や装飾を制作するなど民衆に根付いた伝統文化に貢献し、地元の子供や美術家への教育にも尽力した[14]。
フランシスコは生涯一度も海外に行くことがなく[15]、国際的な美術動向に飛び込むことはなかった。また褐色の皮膚をもつ地方出身者として[16]、大都会マニラに住んで展覧会を開いて裕福な美術コレクター向けに作品を売るよりも、アンゴノの先輩画家ホアン・センソン(1847~1942年)[17]にならって、この町の人々に作品が愛されることを望んだ[18]。そしてこのようなフランシスコの作品から、アンゴノは、近代都市文化に毒されたマニラと対比されて、「素朴」な原フィリピンの文化を残していると理想化されたのである[19]。
しかし、《カモテ芋を食べる人》(1946年)[20]のような、労働者の過酷な生活へのまなざしは、1950年代以後の大型絵画や壁画では周辺に追いやられ、もっぱら建国・独立の闘士(マゼランのスペイン軍と戦ったラプ=ラプから、スペインからの独立運動を主導したホセ・リサールやボニファシオまで)を大きく描き、歴史を動かしたのは英雄的人物とされる。フランシスコの歴史観は、1960年以後の新しい歴史学――歴史の原動力は無名の民衆であったり、政治指導者よりも産業の発展だというような――からは時代遅れのものであるかもしれない[21]。しかも、フランシスコの歴史画は、行動するたくましい男性(公的領域)と、家事や育児に専念する女性(私的領域)という、男性中心主義によるステレオタイプな女性観に支配され、女性が主役となるのは神話のなかだけだった。フランシスコは「女性らしい」人物表現よりも筋肉質の男性表現を好んだという証言[22]もある。確かに、《教育による進歩》でも、女性は母親あるいは教師としての役割に固定され、最終的に国家を学問によって発展させ歴史の主役となったのは男性となっている。
政治との距離
このようにフランシスコの作品を政治的に解釈すると、彼が絵画の周辺部の人物やその細部に重点をおくのも[23]、一点透視法(東洋を支配するオリエンタリズムの眼差し?)を使わないのも、「風景の非植民地化」と解釈される[24]。しかしフランシスコがどのような政治姿勢を持っていたかを推測するには、彼の絵画作品をていねいに読み解いていくしかない。ひとつ確かなことは、「国家」という大きな物語と、「民衆」という小さな物語の間を揺れ動いて制作したということだ[25]。
フランシスコの最晩年の作品《フェルディナンド・マルコスの生涯》(1969年)は、マルコスが1965年に続いて大統領に再選された機会に委嘱されてマルコスの生涯を描いた巨大な絵画である。画面を渦巻のような曲線で分割し、周辺から中央に向かって、大学での学習、ボクシングや水泳などのスポーツ活動、抗日戦と拷問などを経て、中央のマルコスの肖像に至る英雄的な生涯を物語り、フィリピン文化センターを設立するなどのイメルダ夫人の業績もたたえられる。しかし、フランシスコが没した2年後の1971年には、「第1四半期の嵐」と呼ばれる学生や共産党下の新人民軍によるマルコス政権への抗議運動が燃え上がり、政治的姿勢を鮮明にした美術家たちが〈NPAA’71〉(進歩的美術家・建築家連盟)を結成する。翌1972年にマルコスは戒厳令を布告し、アメリカの庇護のもと、10年以上も反共独裁政権を維持するが、1986年の民主化運動「EDSA革命」でついに打倒される。もしフランシスコが57歳の若さで亡くなることなく、「民衆」が「国家」に勝利したこの政変を目撃したら、いったいどのような歴史画を描いただろうか。
(黒田雷児)
[1] フルネームはCarlos Modesto Villaluz Francisco
[2] 浅黒い皮膚をもつ道化師の名前からくる「ボトン」の愛称で広く知られる。
[3] D. M. Reyes, “Miracle of Rare Device,” The Life and Art of Botong Francisco, Patrick D. Flores (ed.) (Quezon City: Vibal Publishing House, 2010), 72.
[4] エダデスがシアトルのワシントン大学在学中には、ヨーロッパの前衛美術のアメリカ初の本格的な紹介でありマルセル・デュシャンの絵画のスキャンダルで名高いニューヨークでの「アーモリー・ショー」(1913年)が話題になっていた。しかしエダデスはダダ的傾向には向かず、同展に見られた「アッシュ・カン派」による市井の人々のリアルな姿を描く作品のほうに影響された。Rod. Paras-Perez, “Once More with Feeling,” Edades and the 13 Moderns (Manila: Cultural Center of the Philippines, 1995), n. p.
[5] エダデスはマスコミでの論争や寄稿を通してフィリピンの知識人や一般市民に近代美術の価値を普及させた。Alice G. Guillermo, “The Triumvirate,” The Life and Art of Botong Francisco, 99. エダデスの「近代派」擁護は下記を参照。ビクトリオ・エダデス「アカデミズムからの解放」、後小路雅弘・ラワンチャイクン寿子編「東南アジア 近代美術の誕生」図録(福岡市美術館、1997年)、202~204頁
[6] Guillermo, 96, 97.
[7] Guillermo, 84, 96.
[8] Reyes, 61.
[9] 1952年のヴェネチア映画祭のあと世界各地で上映された。また2015年のヴェネチア・ビエンナーレのフィリピン・パヴィリオンで紹介された。下記を参照。Tie A String around the World, Patrick D. Flores (ed.) (Manila: The National Commission for Culture and the Arts, The Department of Foreign Affairs, and The Office of Senator Loren Legarda, 2015).
[10] Guillermo, 90に引用
[11] Victorio Edades, “Toward Virility of Arts,” Newsweek (September 26, 1948), Flores, 30およびManalo, 169に引用(引用文と出典に若干の違いがある)。
[12] マナロはここでもアモルソロとの興味深い差異を指摘している。フランシスコ作品の農民は竹竿などの道具で地面を開墾しているのに対し、アモルソロ作品ではもっぱら手で農作業をしているのである。Manalo, 201.
[13] アンゴノについては下記を参照。フィリピン・アート・ガイドブック・プロジェクト(中西美穂、山縣量子、古沢ゆりあ、さいとううらら)編『フィリピンアートみちくさ案内 マニラ篇』(フィリピン・アート・ガイドブック・プロジェクト)、2013年、82~90頁
[14] Patick D. Flores, “If Memory Serves,” The Life and Art of Botong Francisco, 15; Reyes, 65–66.
[15] Reyes, 72–73. フランシスコは海外からの招聘も断り続け、敬愛する画家リヴェラに会いにメキシコに行く唯一の機会も高熱を発して断念した。
[16] 姉はボトンとちがい色白だった。さらに地方出身者としてマニラでは差別された可能性もある。Manalo, 166
[17] Realism in Asian Art (아시아 리얼리즘), Kim Inhye and Joyce Fan (ed.), (The National Museum of Contemporary Art, Korea, and The National Art Gallery, Singapore, 2010), 34–35に作品掲載。
[18] Manalo, 209–210.
[19] Manalo, 157.
[20]「東南アジア 近代美術の誕生」、40頁に掲載
[21] Roberto G. Paulino, “Visualizing Philippine History: Image and Imagination in Murals,” The Life and Art of Botong Francisco, 110–135.
[22] Flores, 13.
[23] Ino M. Manalo, “Angono: Hometown as Subversion,” The Life and Art of Botong Francisco, 177.
[24] Ino M. Manalo, 172.
[25] 1941~45年の日本占領期には、他のフィリピン作家とともにフランシスコも日本の美術家たちとの交流があった。1942年には、向井潤吉、阿部芳文(展也)、猪熊弦一郎、佐藤敬らの画家、小説家の火野葦平も出席した交歓会に出席し、1944年の第2回全国美術建築公募展では1等賞、2等賞を受賞している(審査委員長のひとりがエダデス)。しかし彼が日本の「大東亜共栄圏」についてどのような考えを抱いていたかはわからない。