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重要作家

ジョージ・キート
奔放な線描による独自のキュビスム

名前(英語)
George Keyt
カテゴリ
絵画
地域
スリランカ
生年
1901
生地
キャンディ(スリランカ)
没地
コロンボ(スリランカ)

●アジアのキュビスムの代表作家

ピカソとブラックが1907年以後に展開したキュビスムはアジア各地の美術家に影響を与えた。ヨーロッパ20世紀前半の前衛美術のなかでも——たとえばシュルレアリスムと比べても——キュビスムは特別にアジアの美術家を魅了した。その理由のひとつは、ルネサンス以後の高度な写実技術による油彩画よりもキュビスムが習得しやすく、かつ、アジア各地の伝統美術に見られる平面性や複数視点とキュビスムがなじみやすかったからかもしれない。全アジアで膨大な数の作家に実践されたキュビスム様式は各地で変化に富んだものだが、独自のキュビスム手法の確立に成功した例は多くはない。2005年に国際交流基金の主催で開かれた「アジアのキュビスム 境界なき対話」展で、南アジアでインド以外からただひとり選ばれたジョージ・キートはその稀な例である。

●アカデミズムからモダニズムへ

20世紀初頭のスリランカ(当時セイロン)では、19世紀ヨーロッパのアカデミックな写実主義による〈セイロン美術協会〉があったが、1920年に英国からチャールズ・フリーグローヴ・ウィンザー(1886~1940)が素描の講師として首都コロンボに滞在し(1932年まで)、スリランカの画家に、パリで起こったフォーヴィスムやキュビスムなどの前衛的なモダニズム美術を伝え、〈セイロン美術クラブ〉を創設した。そのいっぽうでウィンザーは古代セイロン美術(たとえば5世紀に描かれたシーギリヤの壁画)の現代化を求めていた。1927年にキートは同クラブに参加し本格的に絵画制作を始める。翌年の、寺院の踊り子を、未だヨーロッパ風のアカデミックな様式を残して描いた絵画が展示された際、スリランカでは初めての官能的な表現がスキャンダルを起こした。後年の様式化された女性像でも依然として(ピカソと同様に)官能性は隠れたテーマであった。

しかしやがて、キートはウィンザーを通して、印象派、ポスト印象派、ピカソ、ブラック、レジェ、マティスらのモダニズム美術から影響を受けるようになる。写真家のライオネル・ウェント(1900~44)も、ヨーロッパ留学で得た当時の最先端の前衛美術の知識やフランスの美術雑誌『Cahier d’Art』などの出版物によりキートら若い作家に刺激を与えた。1933年からキート作品は、はっきりとキュビスムの影響を示すようになる。その静物画はジョルジュ・ブラックに似ていると指摘されたが、後年に展開する一筆書きのように長く画面のなかをうねる線描による構成はキート独特のものである。

●仏教寺院壁画の実験

キートがヨーロッパに発するモダニズム美術のスリランカ的な変奏をおこなった背景として、ヨーロッパ系[1]の両親のもと、仏歯寺で知られる古都キャンディに生まれ、少年時代から仏教寺院や僧侶に親しんでいたことがある。1939年と1946年の2度にわたってインドに長期滞在したこともその作風に大きな影響を与えた。今ではユネスコにより世界遺産に指定されたスリランカのシーギリヤやアヌラーダプラ、ポロンナルワの壁画や彫刻、インドのアジャンターの壁画などの仏教やヒンドゥー教美術への敬意が、南アジアならではの近代的様式を生み出したのである[2]

キートが24歳のときには、絵師カーストの出身であるマーリガーワゲ・サーリス(1880~1975)が、色彩リトグラフによる仏教絵画を発売、同年には仏教改革運動=シンハラ仏教ナショナリズムの重要な著作が発売されている[3]。キートの絵画には政治性を見出すことは困難であるが、キートの仏教への信仰もこのようなナショナリズムと民族運動の時代にあったこと[4]を考慮すべきだろう。

キートの仏教美術とのかかわりで重要なのは、1939~40年に、コロンボ近郊のゴータミ寺院 (Gotami Vihara)で制作した壁画である。仏陀の生涯を表したその壁画は、やわらかな曲線の積み重ねで壁を埋め尽くすように群像が描かれており、キートが1940年代の様式を完成する以前から絵画平面に強烈なリズムを与える手法を身に着けていたことがわかる。キャンディの伝統的な壁画と異なり、各場面が建築構造によって仕切られることなく、布や床の曲線的な装飾パターンで分けられているだけであることもキート独自の表現である[5]。この壁画でも女性の身体のボリュームが強調されるが、より興味深いのは、悪魔の顔だけが直線的でややキュビスム的な異相で描かれ、あえて不調和をもちこんでいることである。深読みをすれば、キュビスムが象徴するヨーロッパの支配力を悪として、それをスリランカ仏教の力で撃退するナショナリズムの現れだったろうか。〈43年グループ〉以前に主流だった英国アカデミズムの拒否は、たしかに反英・反植民地主義・民族主義の発露だったかもしれない。スリランカは1948年にイギリス連邦内自治領「セイロン」として独立したので、〈43年グループ〉もまた独立に向けた運動と無縁ではなかっただろう[6]

キートが切り開いた仏教壁画スタイルの絵画は、〈43年グループ〉の若手メンバー、スタンリー・キリンデ(1930~2009)ら後続のスリランカ画家にも継承されている。

●〈43年グループ〉とそれ以後

1943年には、ウェントのよびかけでジェフリー・ビリング(1907~92)、ジャスティン・ダラニヤガラ(1903~67)、ハリー・ピーリス(1904~88)らにより結成された〈43年グループ〉の展覧会にキートは初回(1943年11月)から出品した。ウィンザーによるマニフェストでは、古代仏教遺跡のアヌラーダプラやポロンナルワの伝統美術を現代の表現に生かすことが求められた。「(それらの伝統美術との)連続性は、アカデミズムの達成した写実的でこぎれいで安っぽい調和よりも、(ヨーロッパの)モダン・アートの装飾性に近いからである[7]」というウィンザーの言葉は、前述のように多くのアジア作家がキュビスムに惹かれた説明として興味深い。

南アジアで最も早いモダン・アートのグループといえる〈43年グループ〉の作品は、当時のスリランカでは理解不能と揶揄されたが、結成翌年のウェントの早すぎる死のあとはハリー・ピーリスが主導し、1952年のロンドン、翌年のパリでの展覧会、1956年のヴェネチア・ビエンナーレ(ダラニヤガラが受賞)などで次第にヨーロッパでも認知されるようになった。

1946年にインドで創刊した美術・文化雑誌『マーグ(Maag)』[8]は、1947年4月号でキートの紹介文2編を掲載、1952年4月号でセイロンを特集し〈43年グループ〉を紹介したほか、しばしばキートの作品を掲載した[9]。この雑誌を創刊したムルク・ラージ・アナンド(1905~2004)は、1947年創立のインド初のモダニズム美術グループ〈ボンベイ進歩的美術家グループ〉の支援者であり、インドの公的美術機関ラリット・カラ・アカデミーの議長として1968年にインド・トリエンナーレを創始するなど、インドにおけるモダニズム美術と国際化に貢献した小説家である[10]。1947年のボンベイでのキートの個展や〈43年グループ〉への評価もそのようなアナンドの価値観によるものだろう。

〈43年グループ〉は、キート、ダラニヤガラ、イワン・ピーリス(1921~88)らを支援しその才能を開花させる役を果たしたが、1960年代後半からグループは力を失い、やがて解散する。その原因は、第一に、1961年に政府がシンハラ語を唯一の国語としたため、ヨーロッパ系で英語を話すピーリスらバーガー(注1参照)のメンバーがカナダ、ヨーロッパ、オーストラリアに移住したことである[11]。第二に、より本質的な原因は、ほとんどのメンバーが生活のため働く必要のない上流階級に属し、一般民衆からかけ離れており、「土地の人々が経験する現実を観察することがなく、都会に住んでない人々が必要とする表現ができなかった[12]」(H. A. I. グナティレケ)ためであるとも考えられる。

●キート様式の完成と衰退

キートは〈43年グループ〉のなかでとりわけ高い評価を得る。実際、キートの画歴のなかで、その様式が最も完成されたのが、同グループ創成期の1940年代である。長い曲線で画面を分割し、そこに女性像や静物などの図像が浮かび上がらせる手法は、本来のキュビスムの、複数の視点から見た立体物の像を組み合わせたり、対象を半透明の色面に分割していくという分析的なものではない。ピカソによく見られる、横顔の鼻と正面からの眼との組み合わせはキートに頻出するが、それもヒンドゥー神話に見る、ラーダとクリシュナ(女性と男性)との合体というシンボリズムと関係するかもしれない[13]

しかし1950年前後から、キート作品は多数の人物の組みあわせにより構図が煩雑になり、特に1970年代以後の作品では、1940年代作品の画面を切り裂くようなダイナミックな曲線による統一性――「リズミカルに流れる線がきざむ、独創的なモダニズム形態」[14]――が失われ、様式的な展開は中絶してマンネリ化していった。

そのいっぽうで、スリランカでの名声は高まり[15]、1954年には高名な評論家ハーバート・リードによる現代美術研究所(ICA、ロンドン)での個展や、インドの主要都市(ボンベイ、デリー、マドラス)での発表で国外の美術界でも知られるようになる。ロンドンの大英博物館とヴィクトリア&アルバート美術館にもキート作品は収蔵されている。1967年のモントリオール万国博覧会ではスリランカ館のステンドグラスを制作するなど、スリランカを代表する画家として92歳まで生きた。

1990年にはジョージ・キート財団が法的に認可され、スリランカの美術や文学の振興のための活動を続けている。

●折衷か独創か

キートがヨーロッパ各地で展示したときは、その作品があまりにピカソに似ているので展示を拒否されたこともあった。しかしこのような見方は、「各国で再発見される自律的で独立したモダニズムを認めない[17]」という欧米中心主義から無縁ではない。キートはこのように憤慨する。

私の作品がピカソみたいだって、バカなことを! そういう連中は、ベンガル地方の伝統のカーリガート絵画とか、南インドのヒンドゥー彫刻とか、バソリ派などの精緻な細密画を見たことがあるのか?(中略) 彼らはあまりにピカソについて見たり聞いたりしてるから、(中略)ヨーロッパ人の眼でアカデミックでないものはなんでもピカソだなんて愚かなことを言うんだ。

アジアの伝統美術よりもはるかにピカソの作品に親しんでいる私たち日本人にもこのキートの憤慨は向けられるかもしれない。実際、アジア全域の20世紀美術を見渡してみても、キュビスム以後のモダニズムの手法と各地の伝統様式との造形的な融合に成功した例は、1940年代をピークとするキートのほか多くはない――カーリガート絵画の様式をとりいれたインドのジャミニ・ロイ(1887~1972)、壺や月、山など伝統的題材を抽象化した韓国のキム・ファンギ(1913~74)くらいだろうか。これらの作家の作品が「折衷」「亜流」ではなく欧米美術を超えた独自性を主張できたかが議論されていくときにも、キートの作品はアジア近代美術の歴史において欠かせない到達点だといえるだろう。

(黒田雷児)

 

[1] セイロン(現スリランカ)在住のポルトガル人、オランダ人、英国人らの子孫は「バーガー」(Burgher people)と呼ばれる上流階級の人々である。キートの家系は英国、オランダ、ポルトガル、ユダヤ説がありはっきりしない。Yashodhara Dalmia, Buddha to Krishna: Life and Times of George Keyt (London and New York: Routledge, 2017), 3–7. ライオネル・ウェントはオランダ系バーガーである。

[2] キートはキリスト教徒の家庭に生まれたが、仏教の僧侶になることを願い、ヒンドゥー教徒であるとも自称し、さらに最後の妻と結婚するためにイスラム教に改宗したともいわれるので、宗教の違いに寛容な態度をもっていたようである。Dalmia, 55を参照。

[3] 足羽與志子「スリランカにおける仏教寺院壁画と現代の寓話 ポスト・コンフリクトまでのイメージ・ハウス」、『NACT Review 国立新美術館研究紀要』、国立新美術館、2016年、96頁

[4] Dalmia, 54.

[5] Dalmia, 53.

[6] しかし、のちキュビスム的手法を全面展開したキートらの作品には、ヨーロッパ追従から脱することができなかったという「イデオロギー的な危うさ」は避けられなかった。ジャガト・ウィーラシンハ「スリランカ美術におけるキュビスムの記号/語法の『存在』」、『アジアのキュビスム 境界なき対話』、東京国立近代美術館・国際交流基金編・発行、2005年、160頁。

[7] Neville Weeratine, 43 Group: A Chronicle of Fifty Years in the Art of Sri Lanka (Melbourne: Lantana Publishing, 1993), 16.

[8] MAAGはModern Architectural Research Group(現代建築研究グループ)の略。

[9] Dalmia, 103.

[10] Dalmia, 101-2.

[11] Dalmia, 205, 211.

[12] Dalmia, 211.

[13] Martin Russel, “George Keyt,” “George Keyt: A Centennial Anthology (Colombo: The Geoge Keyt Foundation, 2001), 6.

[14] Dalmia, 175.

[15] この頃のキートの名声を示すエピソードがある。1954年に映画『巨象の道(Elephant Walk)』撮影のためにスリランカに滞在していた、『風と共に去りぬ』で高名な女優ヴィヴィアン・リーがキートを訪れて彼の作品を買っている。リーはのち体調をくずしエリザベス・テーラーが役を引き継いだ。リーの没後にもキートの作品は発見されなかった。Dalmia, 43–44.

[16] ただしキートの作品がヨーロッパ各地で展示されたときの評価は必ずしも好意的ではなかった。1952年のロンドンでの〈43年グループ〉展を見た美術評論家ジョン・バージャーからは、「彼[キート]はピカソ、インドのアジャンターの洞窟絵画、シンハラ人のシーギリヤ壁画などを寄せ集める……しかし彼はこれらの要素を熔解して統合する火を持たない、雰囲気があまりにノスタルジックだし彼が見るものはあまりに図式的だから。」と酷評される。いっぽう、同時期にロンドンの別会場で開かれたキートの個展には、「独自の感情的・詩的なイメージによって、シンハラとインドの神話に、現代の人生哲学を表現できるテーマを見出す」才能が評価されると高い評価もあった。Dalmia, 153-4.

[17] Dalmia, 190–1

[18] Dalmia, 191–2.

 

図版

レモンのある静物

1901–93年
福岡アジア美術館所蔵

ゴータミ寺院壁画① 

写真提供=足羽與志子(2019年撮影)

ゴータミ寺院壁画② 

仏陀の左にキュビスム風に描かれた悪魔がいる

撮影=黒田雷児(1986年撮影)

1967年のモントリオール万国博覧会・スリランカ館のステンドグラス

出典

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