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(顔写真出典)「幸福な創造者 スタジオ」 행복한 창조자 스튜디오
キム・ファンギは1933年に日本へ留学して西洋美術を学び、1937年の帰国後に韓国の美術界で地位を築いた。その後、パリやニューヨークといった先端的な美術の拠点に渡り、自身のスタイルを磨き続けた。当初、キム・ファンギは山、鳥、月、壺といった伝統的なモチーフを描くことで韓国固有の美を追求していたが、それらはやがて抽象的な形へと変容していく。晩年にはさらに単純化が進められ、丸と四角の集合体が画面全体を覆う「点画」と呼ばれる手法に到達した。
1970年代以降、韓国では「単色画」と呼ばれる東洋的感性を背景とした独自の抽象表現が大きな展開を見せたが、キムはその源流をなす作家のひとりといえる。
《20-V-1974 #330》では、ふぞろいの色の点が画面に心地よいリズムを作りだし、点の余白でできた直線が画面の縁を越えて宇宙的な広がりを感じさせる。絵の具のにじみや色合いは墨を思わせ、描かれているのは抽象的なイメージでありながら、東洋的な情趣をたたえた一点である。
西洋の美術理論を学びつつ、それをいかなる形で自分たちの伝統と接続し自らのものとするか、というのは、アジアの美術作家たちが取り組んできた大きな課題のひとつだった。キム・ファンギは、画面にひとつひとつ点を打つという求道的ともいえる反復の技法によって、欧米の抽象絵画とは一線を画する韓国固有の抽象絵画の世界を切り拓いたのである。
English page
http://whankimuseum.org/
単色画
《20-V-1974 #330》
1974
福岡アジア美術館所蔵
部分
(顔写真出典)「幸福な創造者 スタジオ」 행복한 창조자 스튜디오
キム・ファンギは1933年に日本へ留学して西洋美術を学び、1937年の帰国後に韓国の美術界で地位を築いた。その後、パリやニューヨークといった先端的な美術の拠点に渡り、自身のスタイルを磨き続けた。当初、キム・ファンギは山、鳥、月、壺といった伝統的なモチーフを描くことで韓国固有の美を追求していたが、それらはやがて抽象的な形へと変容していく。晩年にはさらに単純化が進められ、丸と四角の集合体が画面全体を覆う「点画」と呼ばれる手法に到達した。
1970年代以降、韓国では「単色画」と呼ばれる東洋的感性を背景とした独自の抽象表現が大きな展開を見せたが、キムはその源流をなす作家のひとりといえる。
《20-V-1974 #330》では、ふぞろいの色の点が画面に心地よいリズムを作りだし、点の余白でできた直線が画面の縁を越えて宇宙的な広がりを感じさせる。絵の具のにじみや色合いは墨を思わせ、描かれているのは抽象的なイメージでありながら、東洋的な情趣をたたえた一点である。
西洋の美術理論を学びつつ、それをいかなる形で自分たちの伝統と接続し自らのものとするか、というのは、アジアの美術作家たちが取り組んできた大きな課題のひとつだった。キム・ファンギは、画面にひとつひとつ点を打つという求道的ともいえる反復の技法によって、欧米の抽象絵画とは一線を画する韓国固有の抽象絵画の世界を切り拓いたのである。
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