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蒼天と草洋の絵画 モンゴル近代美術の展開
山木裕子(福岡アジア美術館学芸課長)
初出=『モンゴル近代絵画展 その源流と展開』(2002年)2025年に編集・加筆[1]
モンゴルとは
ひとくちに「モンゴル」といっても、その定義は容易ではない。ここで説明するモンゴルとは、ロシア連邦の南、中国の北に位置する、「モンゴル国」のことである[2]。
現在のモンゴル国は、1992年に誕生した資本主義国家である。日本の約4倍ほどの広大な国土に比して、人口は238万人と少なく、その3分の1は、首都ウランバートルに集中している。モンゴルといえば、多くの人が「草原の国」とイメージするように、国土のおよそ8割が草原で占められている。降水量は非常に少なく、夏に集中している。冬は放射冷却のため、雲ひとつない美しい晴天の日が多い。しかし、気温はウランバートルでも零下20~30度で、冷害に襲われることも少なくはない。この厳しい自然にうまく適応した生活形態として、モンゴル草原に暮らす人々は遊牧を営んできた。
もともと「モンゴル」とは、草原に生活する一部族の名に過ぎなかった。13世紀チンギス・ハーン率いる部族の勢力が拡大するにつれ、その傘下に入った人々がこぞってモンゴル族と標榜するようになったという。つまり、チンギス・ハーンによって統合、形成された民族なのである。
その大帝国時代は14世紀には終わり、その後モンゴル草原は群雄割拠の時代に入る。しかし、1634年には現在の中国内モンゴル自治区の地域が、そして1691年には現在のモンゴル国の地域(外モンゴル)が清朝の帰属となる。20世紀に入り清朝の勢力が衰えると、モンゴルでは独立運動が起こり、1924年、世界で2番目の社会主義国「モンゴル人民共和国」として独立を果たす。それからソビエト連邦を中心とする社会主義圏の一国として約70年間の歴史を刻んだ後、ソビエト連邦の崩壊を受けて、1992年モンゴル国として新しいスタートを切った。
近代以前
モンゴルに油彩画の技法が本格的に流入されたのは、1924年の人民政府成立後のことである。「モンゴル画」という言葉があるが、これは「モンゴル・ゾラッグ(Mongol Zulag)」の訳語である。「ゾラッグ」とは、モンゴル語で絵画のことを指すため、広い意味ではモンゴルの絵画全般を指すが、狭い意味では、モンゴルに伝わる顔料で描く伝統的な絵画形式を指す。つまり「西洋画」に対する「日本画」と同じ意味ととることができる。ここでは、後者の意味で「モンゴル画」という語を使用する[3]。
近代美術の前段階として、仏教美術があった。モンゴルには、13世紀にまずウイグルから、その後チベットから仏教が伝播し、仏教思想が広く浸透した。現在も、守り続けられているその思想は、チベット仏教を純粋な形で受け継いだものである。モンゴルの仏教美術は、17世紀に初代活仏[4]ジェプツェンダンバ・ザナバザル1世(1635~1723)の登場によって開花した。
モンゴルの仏教美術で、最も注目すべきであるのは、アップリケ(縫付模様)による作例の多さであろう。チベットで制作されるタンカ(仏画)にも、綿布に顔料で描かれる一般的なタンカの他に、アップリケ作品は少なからずある。寺院で開催される大祭で、屋外に飾られる数メートルもあるタンカは、アップリケで制作されることが多い。それは、サイズが大きいほど、出し入れの際に負担が大きくなり、顔料による彩色では痛みが生じやすくなるためと考えられる。モンゴルの場合は、大きなサイズだけではなく、一般的なサイズのタンカでもアップリケで制作されている場合が多い。これは移動と、乾燥性の強い気候がその要因として考えられる。この場合の移動というのは、遊牧という生活習慣もあろうし、また当時たびたび起こっていた、部族同士の紛争による戦禍を避けるためのものでもある。実際、ザナバザルの時代、最初に建てられたのはゲル様式の寺院であり、現在のウランバートルに寺院を構えるまで、何度も移動を繰り返していた[5]。このアップリケ仏画の伝統は、後に形を変え、モンゴル独特の絵画様式を生み出すこととなる。
20世紀初頭
17世紀から清朝の支配下にあったモンゴルでは、清朝の勢力が衰えた20世紀初頭に独立運動が起こる。1911年、中国で起こった辛亥革命の混乱に乗じて、モンゴル仏教界最高の活仏ジェブツェンダンバ・ホトクト8世を「ハーン」、つまり皇帝として推戴し、独立宣言する。しかし、清朝を倒して樹立した中華民国と、ロシア両国の圧力で独立は認められず、両国の協定で宗主権を握ることとなった中華民国は、モンゴルの自治のみを認めた。しかし、1917年、10月革命で帝政ロシアが倒れると、中華民国はモンゴルに対し自治撤廃を強要した。そのため、反中国の動きが強まり、モンゴルはソ連へと接近し始める。
20世紀初頭のこうした状況の中、仏画の制作に携わっていた画家たちも、否応なしに現実の人間や社会に目を向けるようになっていった。これまでも活仏たちの肖像は描かれていたが、それはあくまでも仏画のひとつ、つまり崇拝の対象としてのものであった。しかしこの時代に描かれるようになったのは、同じ活仏でも、部屋の中に立つ現実の姿であり、それまでの聖化された活仏像とは全く異なるものであった。また人物だけでなく、人々の暮らしぶりや街の風景、毎年モンゴル相撲、競馬、弓射などをおこなう国民祝祭のナーダムや、チベット仏教僧による仮面舞踊をともなう秘教儀式ツァムといった祭礼の様子などが、画題として描かれるようになった。
その代表的な作家が、バルドゥー・シャラヴ(1869~1939年)である。シャラヴはもともと僧として教育を受け、絵画制作を始めた。そして、その画才を認められ、ボグド・ハーン(ジェブツェンダンバ8世)のもとでも制作を行うようになった。シャラヴが描いた《モンゴルの一日》《馬乳酒祭り》(どちらも1911~19年、ザナバザル美術館所蔵)は、草原で暮らす遊牧民のあらゆる生活情景をいきいきと描いた、記念碑的な大作である。画面全体を小さな山で覆うように大地を描き、その山や谷を間仕切りのようにして細部の様々な場面を構成したこの作品は、当時のモンゴル民族の生活を知る重要な民族学的資料ともなっている。シャラヴの作品は、現代の「モンゴル画」の画家たちにも、画題様式の点で大きな影響を残している。
仏教絵画を除いた、シャラヴ以前の「モンゴル画」については明らかではないが、ツァガーンジャムバの《ドガル・ザイサン》(20世紀初頭、ザナバザル美術館所蔵)や、ウーチュールというカードゲームなどに描かれた民衆画が、その一端を伝える材料となるであろう。この時期に、ソノムツェレンによって描かれたトゥシェート・ナサンツォクトとその妃の肖像(19世紀末、ザナバザル美術館所蔵)は、モンゴルで描かれた最も初期の油彩画の作例といえるであろう。陰影をつけた面貌表現と平面的な室内の風景が混在した作例である。ナサンツォクトとその妃については、肖像写真が残されており、ソノムツェレンの作品に描かれた容貌とかなり酷似しているものの、絨毯の表現は平坦で奇妙な印象を受ける。西洋絵画、または写真の影響を受けて制作されたと考えられるが、所々の不自然な箇所が、他のアジア地域にも見られる初期洋風画[6]の特徴と共通性をもつ。時計などの西洋風の小物が描かれていることも、そうした絵画と共通した要素である。当時のウランバートルには、中国人商人がかなり生活しており、彼らによってウランバートルにもそうした品物が入ってきたと推察される。
モンゴル人民共和国の誕生
中華民国の勢力が強くなるにつれ、モンゴルはソ連に急接近していった。1921年スフバートル(1894~1923年)やチョイバルサン(1895~1952年)らによってモンゴル人民革命党が結成され、ソ連の後押しを受ける形で、1924年モンゴル人民共和国は独立を果たす。
前述のシャラヴは、時代の流れにいち早く乗り、この頃《レーニンの肖像》(1924年、国立近代美術館所蔵)を制作した。またモンゴルとソビエトの戦士の友好を描いたプロパガンダ・ポスターを数多く制作したといわれている。活仏の肖像から、民衆の生活、そして社会主義プロパガンダと、シャラヴの主題の変化は、当時のモンゴルの状況変化を映し出している。
1924年にジェプツェンダンバ・ホトクト8世が亡くなると、その転生は認められず、一党独裁の社会主義国としてモンゴルは歩み始め、集団化や私有財産没収などの社会主義的な政策が進められた。1920~30年代には、スターリニズムが吹き荒れ、革命の功労者たちが次々と失脚・処刑させられるという暗い時代へ突入した。同時に宗教弾圧が行われ、それに反対して暴動を起こしたラマ僧をはじめ、おびただしい数の僧が殺され、寺院や仏教美術の至宝も次々と破壊されていった。
1940~60年代 油彩画の受容
仏教文化が次々と失われていく代わりに、ソ連から新しい美術がもたらされた。ソ連を唯一の窓口として、西洋絵画の技法が入ってきたのだ。1930年代、ソ連の芸術家による展覧会がウランバートルでおこなわれたり、ソ連の美術教師がモンゴルで教え始めた[7]。1939年にはウランバートルに夜間制の美術学校が開校した。その初期の油彩画家として活躍したのは、映画・舞台美術の専門家であったルヴサンギーン・ガヴァー[8](1920~91年)や、馬や牛の動きを迫力のある画面で表現したオチリン・ツェヴェグジャヴ(1915~75年 《雄牛の戦い》、1958年、国立近代美術館所蔵、《荒馬の調教》、1963年、国立近代美術館所蔵)らである。
1942年には、芸術家組合が設立され、D. チョイドク(1917~56年)が会長に就任した。美術家たちは、必ず組合へ加入することが原則であった(組合へ加入できた者しか、美術家としてみなされなかった) 。
その頃から、国費留学生が続々とソ連へと渡るようになった。美術の分野では、ウルジンギーン・ヤダムスレン(1905~86年)、ニャム=オソリン・ツルテム(1923~2001年)、G. オドン(1925~96年)がその最も初期の留学生である。
ツルテムは、少年期は僧となるべく教育を受けたものの、ちょうど社会情勢の変化に遭遇し、映画舞台の美術スタッフとして働いていた。当時すでに活躍していたガヴァーからその基礎を教わり、その後、戦後最初の留学生としてソ連に渡って、モスクワのスリコフ芸術大学で学んだ。留学して間もない時期の制作である《太陽の下で》(1951年、Ts. エンフジン所蔵)は、ロシア人画家による非常によく似た作品があり[9]、アカデミックな技法を堅実に学んでいる様がうかがわれる。
当時のソ連では、1920年代前衛芸術運動が勃興したものの、1928年に始まった集団化の政策によって、文化活動は急激に締めつけられ、社会主義リアリズムのみが唯一の手法として隆盛を極めていた。モンゴル人画家たちは、当時の絵画だけでなく、19世紀ロシアのリアリズム絵画や世紀末の印象主義絵画など、実際に目の当たりにしたであろう。そこで、実際に彼らの心を捉えたのは、帰国してからの作品から判断すれば、迫真的なリアリズムというよりも、印象主義的な傾向が強いように思われる。
社会主義リアリズム的な作品としては、バルバリン・ゴムボスレン(1930~2000年)《町の中心》(1951年、国立近代美術館所蔵)、オドン(1925~96年)《仕事を終えて》(1953~4年 国立近代美術館所蔵)、D. ルプサンジャムツ(1914~83年)の《ラジオが家に来た!》(1956年、国立近代美術館所蔵)、などである。これらはいずれも、ウランバートルの発展した様子や労働の大切さ、それによってもたらされる恩恵という社会主義的な側面を描いたものである。そうした画家の中でも、鮮やかな色彩で、光と陰が織りなす印象的な風景を表現したバダムジャヴィン・チョグソム(1930年~)は、模倣にとどまらない独自の絵画スタイルを確立した傑出した画家であろう。
その後も、多くモンゴル人の若者たちが、ソ連で学び、技術と経験を母国へと持ち帰った。
1960~80年代—油彩画の展開
1970年代頃になると、ソ連に限らず、東ドイツやチェコスロバキアなど東欧の社会主義国に留学する作家が現れてきた。N. ツルテムの子息ツルテミン・エンフジン(1953年~ 1978年にドイツ留学)やM. プテムジ(1942 年~ 1968年にチェコスロバキア留学)らがその例である。彼らは、ソ連流の絵画ではない、よりモダニズム的な絵画をモンゴルにもたらした。
Ts. エンフジン(《ナーダムで》1983年、芸術家組合所蔵、《草原の朝》、1985年、Ts. エンフトヴィシン所蔵)の洗練された画風や、フォーヴィズム風のラドゥナーギン・ドゥインホルジャヴ(1953~97年 《牛角引き》1987年、芸術家組合所蔵)、ゴビ砂漠の風景をオレンジの色彩で印象的に描いたCh. バザルヴァーニ(1932年~ 《プルドの砂漠》1968年、国立近代美術館所蔵、《ゴビのザグの木》1989年、国立近代美術館所蔵)などに代表されるように、画家たちそれぞれの個性が表れ始めた。またYo. ウルズィーホタグ(1950~2004年 《草原の主》1982年、国立近代美術館所蔵、《遊牧の一家》1988年、国立近代美術館所蔵)やB. ボルド(1942年~ 《ハルハ河のリンゴ》1985年、芸術家組合所蔵)のように、社会主義的な内容を取り扱いながらも、その表現には広がりが見られるようになった。
しかしこうした中、当時のモンゴル人画家たちを取り巻く状況を簡潔に示す事件が起こった。ドラマチックな油彩画を得意としたO. ツェヴェクジャヴ(1915~75年)が、1968年に制作した実験的な作品《母の白い心》(国立近代美術館所蔵)が、その抽象的な表現が問題となり、展覧会の中止、そして罰金を支払わされるという事態となったのだ。色面で構成される、モダニズム的なこの作品は、プルジョワジーのもので、危険だとみなされた。その後も、東欧で抽象表現を学んだ作家が、帰国後それが原因で地方に送られるという状況[10]が一方ではあった。
モンゴル画の新たな方向性
油彩画の技法が浸透し、様々な画家によって描かれ始めた一方で、画家たちのモンゴル画への感心は薄れていった。この傾向に反し、伝統的な技法の重要性を訴えたのが、ウルジンギーン・ヤダムスレン(1905~86年)とドゥラムジャヴィン・ダムディンスレン(1909~84年)であった。
彼らは共に一旦は油彩画を学んだものの(ヤダムスレンは、最初の留学生としてモスクワで、ダムディンスレンは独学ではあるが)、「モンゴル画」の制作に回帰することとなる。そして、シャラヴ以降停滞を見せていた「モンゴル画」の重要性を意識し、歴史画に取材した作品や家畜、共同体の様子を装飾的に描くようになった。しかし、歴史画といっても(油彩画でも同様だが)、描かれるのは人民革命の英雄スフバートルや人民解放運動の勇士アヨシなど、社会主義、反ブルジョワ運動に関係した人物や事件についてだけであった。ロシアヘも攻め込んでいた、チンギス・ハーン、フビライ・ハーンなど大帝国時代の英雄を描くことは、ソ連との関係上タブーだったのだ。
また、ツルテムのように油彩画とモンゴル画(《ウラー(召集)》、1972年、国立近代美術館所蔵)、どちらかではなく、両方のジャンルで制作を続ける画家も少なからず存在する[11]。
人民革命から40年を記念する1960年代半ば、数点のアップリケ作品が、国の依頼で制作された。ヤダムスレン、U. ルーニャ(1920年~)の《多くの民族》(1969年、国立近代美術館所蔵)や、A. ツェレンフー(1931年~)の《スフバートル》(1971年、国立近代美術館所蔵)など手法は伝統的なものであったが、その画題は、あらゆる階層の人々の団結を訴えるものであったり、人民革命を称えるなど、社会主義国らしいものであった。こうしたアップリケ作品は、主にデザインを男性が行い、縫製は女性が担当した。この時期制作されたポスター風の作品(ダムディンスレン《人民革命40周年》1961年、国立近代美術館所蔵)は、明るい色彩のキッチュな作例で、中国のプロパガンダ絵画を思い起こさせる。
これらのモンゴル画の作品は、一概にひとくくりにすることはできないものの、陰影を付けた面貌表現や遠近法をもって描いた室内の構成に西洋絵画の影響が見られ、屋外の雲や山、波の表現には、タンカに見られる形式的な描法が使用されている。たとえば、渦を巻くように描かれる雲の表現はその代表的なものであろう。また、画面の大部分を、波のような大地で覆っていく手法は、シャラヴの影響と思われる。
1990年代—民主化以降の動向
ソビエト連邦のペレストロイカやグラスノスチといった開放政策と連動するように、1988年頃からモンゴル国内でも民主化運動が起こった。その一環として起こったのが、それまでタブーとされてきた民族の英雄チンギス・ハーンをはじめとする過去の歴史の見直しキャンペーンである。それを受けて、Yo. ダルフ=オチル(1958年~)は《蒼き狼とゴア・マラル》(1988年、国立近代美術館所蔵)という作品を描いた。これは、『元朝秘史』に記されるチンギス・ハーン誕生の伝説を表したものである。
1990年には複数政党制が導入され、人民革命党一党,独裁体制は終焉を迎え、市場経済が導入された。1991年末にはソビエト連邦が崩壊し、翌1992年モンゴルでは新憲法が成立し、新生「モンゴル国」が誕生した。
これを受けて、活動停止を余儀なくされていた仏教寺院の再興が始まり、1993年にはツァム大祭が復活した。しかし、ソ連圏の経済圏の一部として機能していた産業は崩壊し、市場経済が導入されたものの、インフレ、物資不足で民衆は困窮を極めてしまう。これまでの国が優れた作品を買い上げるという社会主義によって支えられた美術界のシステムも崩れた。アーティスト達は、絵を描こうにも材料に不足し、発表の機会を得ることすら難しくなった。美術館も予算不足で、展覧会の開催や収蔵品の管理もままならない状態に陥った。
しかし、経済的基盤とは引き替えに、画家たちは画題、様式に制限を受けず、自由に描くことができるようになった。また、美術家たちは必ずしも組合に加入する必要はなくなり、自由にグループを結成することができるようになった。まず、ダルフ=オチルらによって〈緑の馬〉が結成され、インスタレーションといった現代美術の手法が試されるようになった。その後、現在に至るまで、〈エイプリル〉、〈テンゲル〉、〈オロン・ザイ〉、〈シタ・アート〉、〈新美術連盟〉等、様々な美術グループが結成され、活動を行っており、その中にはまだまだ荒削りではあるがパフォーマンスやインスタレーションに挑戦する作家も登場してきた。
現在(編注 2002年)のモンゴルでは、美術作品を購入しようとする人はまだわずかで、美術の流通システムは確立されてはいない。遊牧民の移動生活には、最小限の必要な物だけが財産であったからだ。しかし、ウランバートルの町中には、「アートショップ」と呼ばれる店が数多く存在する。ここでは小ぶりの風景画やモンゴル画が売られており、それらを買い求めるのは外国人観光客である。民族的な画題や風景画といったジャンルが好んで描かれるのは、彼らの典味を満たすためということも一因であろう。
そうした傾向の中、ツァガーンダリーン・エンフジャルガル(1960年~)は、特異な色使いとメタリックな質感をもった独特のスタイルで、弾圧を受け廃墟となった寺院、つまり社会主義時代の暗部を描いたり(《静かな僧院》1990年、Ts.エンフトヴシン所蔵)、民主化以降経済状態の悪化から増加したストリート・チルドレンを幻想的に描くなど、現代モンゴル社会を鋭く見つめた作品を制作している(《月の子どもたち》1993年、福岡アジア美術館所蔵)。また、すでに画歴も長く、芸術大学の学長を長年務めるなど、画家としての地位を確立してはいるものの、単なる美しい風景に終わらず、モンゴルの人々が昔から信じている自然の中に潜むアニミスティックな力を描き出すツェレンナドミディン・ツェグミド(1958年~)は、注目に値するであろうし(《オルホン河》1993年、福岡アジア美術館所蔵、《車輪付きゲルの移動》、2000年、芸術家組合所蔵)、絵画だけにとどまらず、力強い作風で彫刻やタペストリーをも制作する女性作家セルオディン・サランツァツラル(1962年~ 《愛》1989年、国立近代美術館所蔵)も今後のモンゴル美術界を背負う作家であるだろう。
モンゴル画の新世代
さらに近年(2013年頃)は自然素材のインスタレーションや広大な自然のなかでの集団パフォーマンスなどが登場してきているが、2010年頃から現れてきた現象として、前述のモンゴル画の新傾向がある。1990年代の民主化以後の急激なウランバートルの都市化、民主化以後のイデオロギーを払拭した若い世代の感性に加えて、国立芸術文化大学での時代性と個性を追求するモンゴル画教育がその背景にある。そこから生まれた作品は、チョジリジャヴィン・バーサンジャブ(1977年~)による政治風刺、ダグヴァサムブーギーン・ウーリントゥヤ(1979年~)やオノンギーン・ウルジンハンド(1979年~)による女性の家庭生活や内面表現、そしてガンボルディン・ゲレルフー(1988年~)による日本の大衆文化を思わせる暴力の表現まで、従来の絵画には見られない多様な表現が噴出している。その技法も、伝統的な膠彩画にこだわらない油彩やアクリル、さらにはコンピュータ・グラフィックに至るまで拡大しており、アジアの伝統絵画が現代化されグローバルな観衆にも訴える変容のひとつの典型として注目される。
おわりに
モンゴル人民共和国の時代、多数の画学生がソ連へと渡り、アカデミックな技法を習得し、モンゴル油彩画の基礎を作った。帰国後、基本的に彼らは美術学校の教師として職を得、制作環境を与えられた。彼らがしっかりとした技術で描いたのは、抜けるような青い空と草原の風景、そこで暮らす遊牧の人々、また次第に大きくなるウランバートルの街の様子であった。仏教絵画の伝統の中から彼らが生みだした、プロパガンダ・アップリケともいうべき、他のどの地域にも見られない特異な作品群。それらの作品は、モンゴルがたどってきた歴史の光と陰を如実に物語っている。
1990年代に入って、モンゴルは民主化運動を経て、劇的な変革を遂げた。それは、ある意味、今度こそ真の独立を勝ち取ったといえるのかもしれない。社会主義時代の検証は、史学の分野でも始まったばかりであり、単純に是非を問えることではない。その時代を懐かしむ世代がいるのも事実であり、また一方で自由な活動を謳歌する人々もいる。モンゴルに比較的大きなサイズの作品が多数残っているのは、国のバックアップ・システムがあった故である。
ただ、社会主義国としての約70年の期間は、ある意味鎖国状態であったとみなすことができるだろう。現代、急激に資本主義化が進み、世界中からの様々な情報がモンゴルに押し寄せている。遊牧から定住生活へと、人々の基本的な生活様式さえも急速に変化している。作家たちは、自らの意志で情報を吸収し作品へと転化することができるが、国際的な美術界の大波に飲み込まれてしまう可能性もある。それとも、他のどの地域にもみられない美術のあり方が生まれるのか。いずれにせよ、この先、モンゴルの美術は益々変貌を遂げていくにちがいない。
[1] 英語版は下記に掲載。Mongolian National Modern Art Gallery: Selected Works from MNMAG’s Collections, 2008.
[2] そのモンゴル国以外にも、モンゴル民族が住む地域として、中国内モンゴル自治区やロシア連邦のブリヤート共和国などがあるが、本稿には含んでいない。
[3] 近年の「モンゴル画」の状況については、下記を参照。山木裕子「モンゴル画の新時代」、『第5回福岡アジア美術トリエンナーレ2014 未来世界のパノラマ ほころぶ時代のなかへ 完全記録集』、福岡アジア美術館、2015年、128〜130頁/バトバヤリン・ツェツェグバダム「2000年以降の伝統的なモンゴル画に見る変化」、同上、155〜157頁
[4] チベット仏教では、優れた僧は仏や菩薩の化身として人々を救済するためにこの世界に生まれ変わり続けると考える。そのため高僧が亡くなると、その転生者を見つけ出し、跡を継がせる。
[5] 現在の首都ウランバートルが発展したきっかけは、ザナバザルが寺院の移動を休止したことが直接的な原因だといわれている。
[6] 19世紀後半に描かれたインドのカンパニー派の絵画や、20世紀初頭のビルマ(現ミャンマー)絵画などがその例である。
[7] 「モンゴル史l」モンゴル科学アカデミー歴史研究所編、1988年
[8] モンゴルの人名は、日本語のような「姓」がなく、モンゴル式では父称(父親の名前、属格)+名なのでルヴサンギーン・ガヴァー(Luvsangiin Gavaa=Luvsangの息子のGavaa)だか、英語式に名+父称(原型)で書くとGavaa Luvsangとなる。ここでは福岡アジア美術館の書式でモンゴル式を採用するが、父称あるいはその属格がわからないときは初出時のアルファベット略称のままとした。
[9] V.ポリソフ=ムサトフ《裸の少年》1898年
[10] 2000年9月ある作家に行ったインタビューより。
[11] ツルテムは、画家として活動する一方、美術史の研究も行っている。ザナバザル時代の仏教美術などモンゴル美術史に関する文章を発表しており、モンゴル美術史の第一人者でもある。
(イメージ画像)
ウランバートル中心部のスフバートル広場
街のなかのチベット仏教寺院
社会主義時代の壁画
モンゴル画
蒼天と草洋の絵画 モンゴル近代美術の展開
山木裕子(福岡アジア美術館学芸課長)
初出=『モンゴル近代絵画展 その源流と展開』(2002年)2025年に編集・加筆[1]
モンゴルとは
ひとくちに「モンゴル」といっても、その定義は容易ではない。ここで説明するモンゴルとは、ロシア連邦の南、中国の北に位置する、「モンゴル国」のことである[2]。
現在のモンゴル国は、1992年に誕生した資本主義国家である。日本の約4倍ほどの広大な国土に比して、人口は238万人と少なく、その3分の1は、首都ウランバートルに集中している。モンゴルといえば、多くの人が「草原の国」とイメージするように、国土のおよそ8割が草原で占められている。降水量は非常に少なく、夏に集中している。冬は放射冷却のため、雲ひとつない美しい晴天の日が多い。しかし、気温はウランバートルでも零下20~30度で、冷害に襲われることも少なくはない。この厳しい自然にうまく適応した生活形態として、モンゴル草原に暮らす人々は遊牧を営んできた。
もともと「モンゴル」とは、草原に生活する一部族の名に過ぎなかった。13世紀チンギス・ハーン率いる部族の勢力が拡大するにつれ、その傘下に入った人々がこぞってモンゴル族と標榜するようになったという。つまり、チンギス・ハーンによって統合、形成された民族なのである。
その大帝国時代は14世紀には終わり、その後モンゴル草原は群雄割拠の時代に入る。しかし、1634年には現在の中国内モンゴル自治区の地域が、そして1691年には現在のモンゴル国の地域(外モンゴル)が清朝の帰属となる。20世紀に入り清朝の勢力が衰えると、モンゴルでは独立運動が起こり、1924年、世界で2番目の社会主義国「モンゴル人民共和国」として独立を果たす。それからソビエト連邦を中心とする社会主義圏の一国として約70年間の歴史を刻んだ後、ソビエト連邦の崩壊を受けて、1992年モンゴル国として新しいスタートを切った。
近代以前
モンゴルに油彩画の技法が本格的に流入されたのは、1924年の人民政府成立後のことである。「モンゴル画」という言葉があるが、これは「モンゴル・ゾラッグ(Mongol Zulag)」の訳語である。「ゾラッグ」とは、モンゴル語で絵画のことを指すため、広い意味ではモンゴルの絵画全般を指すが、狭い意味では、モンゴルに伝わる顔料で描く伝統的な絵画形式を指す。つまり「西洋画」に対する「日本画」と同じ意味ととることができる。ここでは、後者の意味で「モンゴル画」という語を使用する[3]。
近代美術の前段階として、仏教美術があった。モンゴルには、13世紀にまずウイグルから、その後チベットから仏教が伝播し、仏教思想が広く浸透した。現在も、守り続けられているその思想は、チベット仏教を純粋な形で受け継いだものである。モンゴルの仏教美術は、17世紀に初代活仏[4]ジェプツェンダンバ・ザナバザル1世(1635~1723)の登場によって開花した。
モンゴルの仏教美術で、最も注目すべきであるのは、アップリケ(縫付模様)による作例の多さであろう。チベットで制作されるタンカ(仏画)にも、綿布に顔料で描かれる一般的なタンカの他に、アップリケ作品は少なからずある。寺院で開催される大祭で、屋外に飾られる数メートルもあるタンカは、アップリケで制作されることが多い。それは、サイズが大きいほど、出し入れの際に負担が大きくなり、顔料による彩色では痛みが生じやすくなるためと考えられる。モンゴルの場合は、大きなサイズだけではなく、一般的なサイズのタンカでもアップリケで制作されている場合が多い。これは移動と、乾燥性の強い気候がその要因として考えられる。この場合の移動というのは、遊牧という生活習慣もあろうし、また当時たびたび起こっていた、部族同士の紛争による戦禍を避けるためのものでもある。実際、ザナバザルの時代、最初に建てられたのはゲル様式の寺院であり、現在のウランバートルに寺院を構えるまで、何度も移動を繰り返していた[5]。このアップリケ仏画の伝統は、後に形を変え、モンゴル独特の絵画様式を生み出すこととなる。
20世紀初頭
17世紀から清朝の支配下にあったモンゴルでは、清朝の勢力が衰えた20世紀初頭に独立運動が起こる。1911年、中国で起こった辛亥革命の混乱に乗じて、モンゴル仏教界最高の活仏ジェブツェンダンバ・ホトクト8世を「ハーン」、つまり皇帝として推戴し、独立宣言する。しかし、清朝を倒して樹立した中華民国と、ロシア両国の圧力で独立は認められず、両国の協定で宗主権を握ることとなった中華民国は、モンゴルの自治のみを認めた。しかし、1917年、10月革命で帝政ロシアが倒れると、中華民国はモンゴルに対し自治撤廃を強要した。そのため、反中国の動きが強まり、モンゴルはソ連へと接近し始める。
20世紀初頭のこうした状況の中、仏画の制作に携わっていた画家たちも、否応なしに現実の人間や社会に目を向けるようになっていった。これまでも活仏たちの肖像は描かれていたが、それはあくまでも仏画のひとつ、つまり崇拝の対象としてのものであった。しかしこの時代に描かれるようになったのは、同じ活仏でも、部屋の中に立つ現実の姿であり、それまでの聖化された活仏像とは全く異なるものであった。また人物だけでなく、人々の暮らしぶりや街の風景、毎年モンゴル相撲、競馬、弓射などをおこなう国民祝祭のナーダムや、チベット仏教僧による仮面舞踊をともなう秘教儀式ツァムといった祭礼の様子などが、画題として描かれるようになった。
その代表的な作家が、バルドゥー・シャラヴ(1869~1939年)である。シャラヴはもともと僧として教育を受け、絵画制作を始めた。そして、その画才を認められ、ボグド・ハーン(ジェブツェンダンバ8世)のもとでも制作を行うようになった。シャラヴが描いた《モンゴルの一日》《馬乳酒祭り》(どちらも1911~19年、ザナバザル美術館所蔵)は、草原で暮らす遊牧民のあらゆる生活情景をいきいきと描いた、記念碑的な大作である。画面全体を小さな山で覆うように大地を描き、その山や谷を間仕切りのようにして細部の様々な場面を構成したこの作品は、当時のモンゴル民族の生活を知る重要な民族学的資料ともなっている。シャラヴの作品は、現代の「モンゴル画」の画家たちにも、画題様式の点で大きな影響を残している。
仏教絵画を除いた、シャラヴ以前の「モンゴル画」については明らかではないが、ツァガーンジャムバの《ドガル・ザイサン》(20世紀初頭、ザナバザル美術館所蔵)や、ウーチュールというカードゲームなどに描かれた民衆画が、その一端を伝える材料となるであろう。この時期に、ソノムツェレンによって描かれたトゥシェート・ナサンツォクトとその妃の肖像(19世紀末、ザナバザル美術館所蔵)は、モンゴルで描かれた最も初期の油彩画の作例といえるであろう。陰影をつけた面貌表現と平面的な室内の風景が混在した作例である。ナサンツォクトとその妃については、肖像写真が残されており、ソノムツェレンの作品に描かれた容貌とかなり酷似しているものの、絨毯の表現は平坦で奇妙な印象を受ける。西洋絵画、または写真の影響を受けて制作されたと考えられるが、所々の不自然な箇所が、他のアジア地域にも見られる初期洋風画[6]の特徴と共通性をもつ。時計などの西洋風の小物が描かれていることも、そうした絵画と共通した要素である。当時のウランバートルには、中国人商人がかなり生活しており、彼らによってウランバートルにもそうした品物が入ってきたと推察される。
モンゴル人民共和国の誕生
中華民国の勢力が強くなるにつれ、モンゴルはソ連に急接近していった。1921年スフバートル(1894~1923年)やチョイバルサン(1895~1952年)らによってモンゴル人民革命党が結成され、ソ連の後押しを受ける形で、1924年モンゴル人民共和国は独立を果たす。
前述のシャラヴは、時代の流れにいち早く乗り、この頃《レーニンの肖像》(1924年、国立近代美術館所蔵)を制作した。またモンゴルとソビエトの戦士の友好を描いたプロパガンダ・ポスターを数多く制作したといわれている。活仏の肖像から、民衆の生活、そして社会主義プロパガンダと、シャラヴの主題の変化は、当時のモンゴルの状況変化を映し出している。
1924年にジェプツェンダンバ・ホトクト8世が亡くなると、その転生は認められず、一党独裁の社会主義国としてモンゴルは歩み始め、集団化や私有財産没収などの社会主義的な政策が進められた。1920~30年代には、スターリニズムが吹き荒れ、革命の功労者たちが次々と失脚・処刑させられるという暗い時代へ突入した。同時に宗教弾圧が行われ、それに反対して暴動を起こしたラマ僧をはじめ、おびただしい数の僧が殺され、寺院や仏教美術の至宝も次々と破壊されていった。
1940~60年代 油彩画の受容
仏教文化が次々と失われていく代わりに、ソ連から新しい美術がもたらされた。ソ連を唯一の窓口として、西洋絵画の技法が入ってきたのだ。1930年代、ソ連の芸術家による展覧会がウランバートルでおこなわれたり、ソ連の美術教師がモンゴルで教え始めた[7]。1939年にはウランバートルに夜間制の美術学校が開校した。その初期の油彩画家として活躍したのは、映画・舞台美術の専門家であったルヴサンギーン・ガヴァー[8](1920~91年)や、馬や牛の動きを迫力のある画面で表現したオチリン・ツェヴェグジャヴ(1915~75年 《雄牛の戦い》、1958年、国立近代美術館所蔵、《荒馬の調教》、1963年、国立近代美術館所蔵)らである。
1942年には、芸術家組合が設立され、D. チョイドク(1917~56年)が会長に就任した。美術家たちは、必ず組合へ加入することが原則であった(組合へ加入できた者しか、美術家としてみなされなかった) 。
その頃から、国費留学生が続々とソ連へと渡るようになった。美術の分野では、ウルジンギーン・ヤダムスレン(1905~86年)、ニャム=オソリン・ツルテム(1923~2001年)、G. オドン(1925~96年)がその最も初期の留学生である。
ツルテムは、少年期は僧となるべく教育を受けたものの、ちょうど社会情勢の変化に遭遇し、映画舞台の美術スタッフとして働いていた。当時すでに活躍していたガヴァーからその基礎を教わり、その後、戦後最初の留学生としてソ連に渡って、モスクワのスリコフ芸術大学で学んだ。留学して間もない時期の制作である《太陽の下で》(1951年、Ts. エンフジン所蔵)は、ロシア人画家による非常によく似た作品があり[9]、アカデミックな技法を堅実に学んでいる様がうかがわれる。
当時のソ連では、1920年代前衛芸術運動が勃興したものの、1928年に始まった集団化の政策によって、文化活動は急激に締めつけられ、社会主義リアリズムのみが唯一の手法として隆盛を極めていた。モンゴル人画家たちは、当時の絵画だけでなく、19世紀ロシアのリアリズム絵画や世紀末の印象主義絵画など、実際に目の当たりにしたであろう。そこで、実際に彼らの心を捉えたのは、帰国してからの作品から判断すれば、迫真的なリアリズムというよりも、印象主義的な傾向が強いように思われる。
社会主義リアリズム的な作品としては、バルバリン・ゴムボスレン(1930~2000年)《町の中心》(1951年、国立近代美術館所蔵)、オドン(1925~96年)《仕事を終えて》(1953~4年 国立近代美術館所蔵)、D. ルプサンジャムツ(1914~83年)の《ラジオが家に来た!》(1956年、国立近代美術館所蔵)、などである。これらはいずれも、ウランバートルの発展した様子や労働の大切さ、それによってもたらされる恩恵という社会主義的な側面を描いたものである。そうした画家の中でも、鮮やかな色彩で、光と陰が織りなす印象的な風景を表現したバダムジャヴィン・チョグソム(1930年~)は、模倣にとどまらない独自の絵画スタイルを確立した傑出した画家であろう。
その後も、多くモンゴル人の若者たちが、ソ連で学び、技術と経験を母国へと持ち帰った。
1960~80年代—油彩画の展開
1970年代頃になると、ソ連に限らず、東ドイツやチェコスロバキアなど東欧の社会主義国に留学する作家が現れてきた。N. ツルテムの子息ツルテミン・エンフジン(1953年~ 1978年にドイツ留学)やM. プテムジ(1942 年~ 1968年にチェコスロバキア留学)らがその例である。彼らは、ソ連流の絵画ではない、よりモダニズム的な絵画をモンゴルにもたらした。
Ts. エンフジン(《ナーダムで》1983年、芸術家組合所蔵、《草原の朝》、1985年、Ts. エンフトヴィシン所蔵)の洗練された画風や、フォーヴィズム風のラドゥナーギン・ドゥインホルジャヴ(1953~97年 《牛角引き》1987年、芸術家組合所蔵)、ゴビ砂漠の風景をオレンジの色彩で印象的に描いたCh. バザルヴァーニ(1932年~ 《プルドの砂漠》1968年、国立近代美術館所蔵、《ゴビのザグの木》1989年、国立近代美術館所蔵)などに代表されるように、画家たちそれぞれの個性が表れ始めた。またYo. ウルズィーホタグ(1950~2004年 《草原の主》1982年、国立近代美術館所蔵、《遊牧の一家》1988年、国立近代美術館所蔵)やB. ボルド(1942年~ 《ハルハ河のリンゴ》1985年、芸術家組合所蔵)のように、社会主義的な内容を取り扱いながらも、その表現には広がりが見られるようになった。
しかしこうした中、当時のモンゴル人画家たちを取り巻く状況を簡潔に示す事件が起こった。ドラマチックな油彩画を得意としたO. ツェヴェクジャヴ(1915~75年)が、1968年に制作した実験的な作品《母の白い心》(国立近代美術館所蔵)が、その抽象的な表現が問題となり、展覧会の中止、そして罰金を支払わされるという事態となったのだ。色面で構成される、モダニズム的なこの作品は、プルジョワジーのもので、危険だとみなされた。その後も、東欧で抽象表現を学んだ作家が、帰国後それが原因で地方に送られるという状況[10]が一方ではあった。
モンゴル画の新たな方向性
油彩画の技法が浸透し、様々な画家によって描かれ始めた一方で、画家たちのモンゴル画への感心は薄れていった。この傾向に反し、伝統的な技法の重要性を訴えたのが、ウルジンギーン・ヤダムスレン(1905~86年)とドゥラムジャヴィン・ダムディンスレン(1909~84年)であった。
彼らは共に一旦は油彩画を学んだものの(ヤダムスレンは、最初の留学生としてモスクワで、ダムディンスレンは独学ではあるが)、「モンゴル画」の制作に回帰することとなる。そして、シャラヴ以降停滞を見せていた「モンゴル画」の重要性を意識し、歴史画に取材した作品や家畜、共同体の様子を装飾的に描くようになった。しかし、歴史画といっても(油彩画でも同様だが)、描かれるのは人民革命の英雄スフバートルや人民解放運動の勇士アヨシなど、社会主義、反ブルジョワ運動に関係した人物や事件についてだけであった。ロシアヘも攻め込んでいた、チンギス・ハーン、フビライ・ハーンなど大帝国時代の英雄を描くことは、ソ連との関係上タブーだったのだ。
また、ツルテムのように油彩画とモンゴル画(《ウラー(召集)》、1972年、国立近代美術館所蔵)、どちらかではなく、両方のジャンルで制作を続ける画家も少なからず存在する[11]。
人民革命から40年を記念する1960年代半ば、数点のアップリケ作品が、国の依頼で制作された。ヤダムスレン、U. ルーニャ(1920年~)の《多くの民族》(1969年、国立近代美術館所蔵)や、A. ツェレンフー(1931年~)の《スフバートル》(1971年、国立近代美術館所蔵)など手法は伝統的なものであったが、その画題は、あらゆる階層の人々の団結を訴えるものであったり、人民革命を称えるなど、社会主義国らしいものであった。こうしたアップリケ作品は、主にデザインを男性が行い、縫製は女性が担当した。この時期制作されたポスター風の作品(ダムディンスレン《人民革命40周年》1961年、国立近代美術館所蔵)は、明るい色彩のキッチュな作例で、中国のプロパガンダ絵画を思い起こさせる。
これらのモンゴル画の作品は、一概にひとくくりにすることはできないものの、陰影を付けた面貌表現や遠近法をもって描いた室内の構成に西洋絵画の影響が見られ、屋外の雲や山、波の表現には、タンカに見られる形式的な描法が使用されている。たとえば、渦を巻くように描かれる雲の表現はその代表的なものであろう。また、画面の大部分を、波のような大地で覆っていく手法は、シャラヴの影響と思われる。
1990年代—民主化以降の動向
ソビエト連邦のペレストロイカやグラスノスチといった開放政策と連動するように、1988年頃からモンゴル国内でも民主化運動が起こった。その一環として起こったのが、それまでタブーとされてきた民族の英雄チンギス・ハーンをはじめとする過去の歴史の見直しキャンペーンである。それを受けて、Yo. ダルフ=オチル(1958年~)は《蒼き狼とゴア・マラル》(1988年、国立近代美術館所蔵)という作品を描いた。これは、『元朝秘史』に記されるチンギス・ハーン誕生の伝説を表したものである。
1990年には複数政党制が導入され、人民革命党一党,独裁体制は終焉を迎え、市場経済が導入された。1991年末にはソビエト連邦が崩壊し、翌1992年モンゴルでは新憲法が成立し、新生「モンゴル国」が誕生した。
これを受けて、活動停止を余儀なくされていた仏教寺院の再興が始まり、1993年にはツァム大祭が復活した。しかし、ソ連圏の経済圏の一部として機能していた産業は崩壊し、市場経済が導入されたものの、インフレ、物資不足で民衆は困窮を極めてしまう。これまでの国が優れた作品を買い上げるという社会主義によって支えられた美術界のシステムも崩れた。アーティスト達は、絵を描こうにも材料に不足し、発表の機会を得ることすら難しくなった。美術館も予算不足で、展覧会の開催や収蔵品の管理もままならない状態に陥った。
しかし、経済的基盤とは引き替えに、画家たちは画題、様式に制限を受けず、自由に描くことができるようになった。また、美術家たちは必ずしも組合に加入する必要はなくなり、自由にグループを結成することができるようになった。まず、ダルフ=オチルらによって〈緑の馬〉が結成され、インスタレーションといった現代美術の手法が試されるようになった。その後、現在に至るまで、〈エイプリル〉、〈テンゲル〉、〈オロン・ザイ〉、〈シタ・アート〉、〈新美術連盟〉等、様々な美術グループが結成され、活動を行っており、その中にはまだまだ荒削りではあるがパフォーマンスやインスタレーションに挑戦する作家も登場してきた。
現在(編注 2002年)のモンゴルでは、美術作品を購入しようとする人はまだわずかで、美術の流通システムは確立されてはいない。遊牧民の移動生活には、最小限の必要な物だけが財産であったからだ。しかし、ウランバートルの町中には、「アートショップ」と呼ばれる店が数多く存在する。ここでは小ぶりの風景画やモンゴル画が売られており、それらを買い求めるのは外国人観光客である。民族的な画題や風景画といったジャンルが好んで描かれるのは、彼らの典味を満たすためということも一因であろう。
そうした傾向の中、ツァガーンダリーン・エンフジャルガル(1960年~)は、特異な色使いとメタリックな質感をもった独特のスタイルで、弾圧を受け廃墟となった寺院、つまり社会主義時代の暗部を描いたり(《静かな僧院》1990年、Ts.エンフトヴシン所蔵)、民主化以降経済状態の悪化から増加したストリート・チルドレンを幻想的に描くなど、現代モンゴル社会を鋭く見つめた作品を制作している(《月の子どもたち》1993年、福岡アジア美術館所蔵)。また、すでに画歴も長く、芸術大学の学長を長年務めるなど、画家としての地位を確立してはいるものの、単なる美しい風景に終わらず、モンゴルの人々が昔から信じている自然の中に潜むアニミスティックな力を描き出すツェレンナドミディン・ツェグミド(1958年~)は、注目に値するであろうし(《オルホン河》1993年、福岡アジア美術館所蔵、《車輪付きゲルの移動》、2000年、芸術家組合所蔵)、絵画だけにとどまらず、力強い作風で彫刻やタペストリーをも制作する女性作家セルオディン・サランツァツラル(1962年~ 《愛》1989年、国立近代美術館所蔵)も今後のモンゴル美術界を背負う作家であるだろう。
モンゴル画の新世代
さらに近年(2013年頃)は自然素材のインスタレーションや広大な自然のなかでの集団パフォーマンスなどが登場してきているが、2010年頃から現れてきた現象として、前述のモンゴル画の新傾向がある。1990年代の民主化以後の急激なウランバートルの都市化、民主化以後のイデオロギーを払拭した若い世代の感性に加えて、国立芸術文化大学での時代性と個性を追求するモンゴル画教育がその背景にある。そこから生まれた作品は、チョジリジャヴィン・バーサンジャブ(1977年~)による政治風刺、ダグヴァサムブーギーン・ウーリントゥヤ(1979年~)やオノンギーン・ウルジンハンド(1979年~)による女性の家庭生活や内面表現、そしてガンボルディン・ゲレルフー(1988年~)による日本の大衆文化を思わせる暴力の表現まで、従来の絵画には見られない多様な表現が噴出している。その技法も、伝統的な膠彩画にこだわらない油彩やアクリル、さらにはコンピュータ・グラフィックに至るまで拡大しており、アジアの伝統絵画が現代化されグローバルな観衆にも訴える変容のひとつの典型として注目される。
おわりに
モンゴル人民共和国の時代、多数の画学生がソ連へと渡り、アカデミックな技法を習得し、モンゴル油彩画の基礎を作った。帰国後、基本的に彼らは美術学校の教師として職を得、制作環境を与えられた。彼らがしっかりとした技術で描いたのは、抜けるような青い空と草原の風景、そこで暮らす遊牧の人々、また次第に大きくなるウランバートルの街の様子であった。仏教絵画の伝統の中から彼らが生みだした、プロパガンダ・アップリケともいうべき、他のどの地域にも見られない特異な作品群。それらの作品は、モンゴルがたどってきた歴史の光と陰を如実に物語っている。
1990年代に入って、モンゴルは民主化運動を経て、劇的な変革を遂げた。それは、ある意味、今度こそ真の独立を勝ち取ったといえるのかもしれない。社会主義時代の検証は、史学の分野でも始まったばかりであり、単純に是非を問えることではない。その時代を懐かしむ世代がいるのも事実であり、また一方で自由な活動を謳歌する人々もいる。モンゴルに比較的大きなサイズの作品が多数残っているのは、国のバックアップ・システムがあった故である。
ただ、社会主義国としての約70年の期間は、ある意味鎖国状態であったとみなすことができるだろう。現代、急激に資本主義化が進み、世界中からの様々な情報がモンゴルに押し寄せている。遊牧から定住生活へと、人々の基本的な生活様式さえも急速に変化している。作家たちは、自らの意志で情報を吸収し作品へと転化することができるが、国際的な美術界の大波に飲み込まれてしまう可能性もある。それとも、他のどの地域にもみられない美術のあり方が生まれるのか。いずれにせよ、この先、モンゴルの美術は益々変貌を遂げていくにちがいない。
[1] 英語版は下記に掲載。Mongolian National Modern Art Gallery: Selected Works from MNMAG’s Collections, 2008.
[2] そのモンゴル国以外にも、モンゴル民族が住む地域として、中国内モンゴル自治区やロシア連邦のブリヤート共和国などがあるが、本稿には含んでいない。
[3] 近年の「モンゴル画」の状況については、下記を参照。山木裕子「モンゴル画の新時代」、『第5回福岡アジア美術トリエンナーレ2014 未来世界のパノラマ ほころぶ時代のなかへ 完全記録集』、福岡アジア美術館、2015年、128〜130頁/バトバヤリン・ツェツェグバダム「2000年以降の伝統的なモンゴル画に見る変化」、同上、155〜157頁
[4] チベット仏教では、優れた僧は仏や菩薩の化身として人々を救済するためにこの世界に生まれ変わり続けると考える。そのため高僧が亡くなると、その転生者を見つけ出し、跡を継がせる。
[5] 現在の首都ウランバートルが発展したきっかけは、ザナバザルが寺院の移動を休止したことが直接的な原因だといわれている。
[6] 19世紀後半に描かれたインドのカンパニー派の絵画や、20世紀初頭のビルマ(現ミャンマー)絵画などがその例である。
[7] 「モンゴル史l」モンゴル科学アカデミー歴史研究所編、1988年
[8] モンゴルの人名は、日本語のような「姓」がなく、モンゴル式では父称(父親の名前、属格)+名なのでルヴサンギーン・ガヴァー(Luvsangiin Gavaa=Luvsangの息子のGavaa)だか、英語式に名+父称(原型)で書くとGavaa Luvsangとなる。ここでは福岡アジア美術館の書式でモンゴル式を採用するが、父称あるいはその属格がわからないときは初出時のアルファベット略称のままとした。
[9] V.ポリソフ=ムサトフ《裸の少年》1898年
[10] 2000年9月ある作家に行ったインタビューより。
[11] ツルテムは、画家として活動する一方、美術史の研究も行っている。ザナバザル時代の仏教美術などモンゴル美術史に関する文章を発表しており、モンゴル美術史の第一人者でもある。
(イメージ画像)
ウランバートル中心部のスフバートル広場
街のなかのチベット仏教寺院
社会主義時代の壁画