地域概要

インドネシア Indonesia

インドネシア近代美術の出現

ジム・スパンカット(美術評論家)

(徳山由香訳を黒田雷児が一部改訳)

出典=『東南アジア 近代美術の誕生』、1997年

 

 

1 植民地時代① 「ムーイ・インディー」から〈プルサギ〉のリアリズムへ

 

インドネシア近代美術は、因習的で植民地的な芸術認識と、19世紀ヨーロッパのリアリズム運動の影薯を受けた新しい傾向のはざまに出現した。もっとも、この両者間の対立は純粋に美学上のものではない。そこにはある社会的背景が存在した。

 

植民地時代の芸術の継承は、20世紀初頭に現れた三人の風景画家——ラデン・アブドゥラー・スリオスブロト(1878~1941年)、ワキティ(1889~1980年)、マス・ピルンガディ(1865~1936年)らの作品に見いだされる。彼らはオランダ植民地時代のインドネシア人画家としてよく取り上げられる。また絵画を制作するばかりではなく、彼らが土地の他の画家に絵画の知識や技法を伝えたことも記録に残されている[1]

 

自然の現実的な姿を描写しようとしたヨーロッパの古典的絵画にみられる再現的絵画技法とは異なり、インドネシアの再現的で写実的な絵画は、伝統芸術の一部といってもいいようなもの、つまり工芸を思わせる、ある種職人芸的なものへと進んでいった。この技術は、当時の芸術の展開が「カグナンkagunan」というジャワ文化における「美術」概念の美学上の枠組みに影響されていたことを示している[2]。これらの工芸的な風景画に見られる自然美は、詩的で叙情的な感性による現実を超えた美的な体験から生まれた。その後多くの風景画家が「商業主義的な」画家になったとしても驚くにはあたらない。彼らはそれぞれの工房で特定の構図を繰り返し用いて風景画を制作していった。後にこうした作品は若い画家たちに「ムーイ・インディー(美しき東インド)」と皮肉られ、批判された。

 

植民地時代最後の時期には、アブドゥラー・スリオスブロトの息子バスキ・アブドゥラー(1914~94年) がインドネシア生まれの画家の中でも最もよく知られた画家であった。1930年から40年にかけて数々の展覧会を積極的に開催したことが記録されている。彼は風景画以外にも美と官能性を探し求め、そのほとんどの作品の中で、この画家は美しい女性たちをモデルにして肖像や伝説の中の女性美を描いた。また貴族性を崇拝する画家としても知られている。

 

バスキ・アブドゥラーは、再現的な絵画技法を用いて精緻な写実的描写をおこなう傾向があった。彼はオランダで正規の美術教育を受け、高度な技術を身につけたため、彼の絵画作品には熟達した素描の技術を見ることができる。それは19世紀から20世紀初頭までのオランダ美術の特質である。

 

 

2 植民地時代② 〈プルサギ〉のリアリズム

 

インドネシア近代美術の出現は、とりわけスジョヨノ(1913~86年) によるバスキ・アブドゥラー批判に見いだされる。1939年、スジョヨノは、バスキ・アブドゥラーが、絵に描くべき題材を描き尽くしてしまうかもしれないと述べたことを非難している。ある特定の題材だけが高い芸術的価値をもっているために画題として使われるのが適切であるというバスキ・アブドゥラーの見解に異議を唱えたのである。スジョヨノの考えでは、バスキ・アブドゥラーが価値あるものとする画題は、真実に根差していないばかりか、古い因習に根差しているだけなのである。絵画に価値を与えるものは、因習ではなく「画家の魂」なのである[3]

 

スジョヨノは確かに新たな思想を表明する重要な役割を果たした。それは後にインドネシア近代美術の基礎となり、イントネシアのモダニズムの言説にもなった。スジョヨノの見解は後にインドネシア近代美術の展開に強い影響を与えたが、そこには彼がリアリズムに転じて「正直さ」を信じていたことがわかる。また美術における美とは、理想化や、因習的な美の基準や官能性、貴族の生活とは必ずしも結び付くものではないという信念もはっきりと示されている。因習的に「美しくない」と決めつけられた現実の中にも美を見いだすことができるのだ。人生の暗い側面、粗野な普通の人々の生活の中にも美は存在するのである。こうしたスジョヨノの考えは、ギュスターヴ・クールベの「リアリズム」宣言(1861年)と以下の3点で比較することができよう。それは(1)保守的な理想主義の拒絶 (2)実証主義原理の採用 (3)政治的目標としての個人の解放への信念、の3点である。

 

スジョヨノによって表明されたリアリズムに向かう傾向は、美についての考え方に対する挑戦にとどまるものではない。リアリズムの原理は社会的現実との関係ゆえに選択されたのである。彼の見方によれば、封建社会では、社会的因習によって貴族が馬車の御者や野菜売りよりも価値ある存在となる。封建主義は人間の間に上下関係を設定した。社会的因習によって英雄的な出来事は市場での野菜の売買よりも価値あるものとなった。そして社会的因習によって牛やライオンはヤギよりも価値があると見なされたのである。

 

スジョヨノはこうした現実や因習にまつわるヒエラルキーを拒絶した。スジョヨノによれば、画家はただ自らの魂のみを頼りにしなければならない。絵画は魂の視覚化である。画家は集団によるあらゆる形態の束縛から自由でなければならない。その結果、彼らは「正しく」あることができる。つまり自身の心の中にあるあらゆるもの、魂を揺り動かすあらゆるものを、いかなる制限もない純粋で率直な方法において表現することができるのである。画家は因習的な基準、伝統、因習的な人間の種分けから自由でなければならない。絵画に視覚化された画家の魂こそがその絵に価値を与えるのである。このやり方で画家たちは、魂の質を保つ限り何でも描くことができ、質の高い作品を生み出すことができるのである[4]

 

大きな目で見れば、こうしたスジョヨノの姿勢と近代性の出現との間には関連がある。彼の思想は、植民地時代最後の時期にインドネシアの人々の中にあった社会改革の思想と直接的に結び付いている。ここでは、あらゆる新しい考え方は近代性に目覚めることと関係がある。

 

 

3 植民地時代③ 「反西洋」の思想

 

バスキ・アブドゥラーがそうであったように、スジョヨノも、義父ラデン・サスモヨがジャカルタの〈バタヴィア・アート・サークル〉の世話役であったため、封建的な集団の出身であったといえる。19世紀のラデン・サレーが描いたようなジャワの貴族社会の中で、自己の探求を続けて行くことが彼の態度であり考えであったのである。スジョヨノの挑戦は、1908年に起こったより大きな動きの一部を成すものであった。この年、民族主義団体〈ブディ・ウトモ〉(訳注:「最高の知恵」の意)がジャワの学生たち(彼らの大部分は封建的家系の出身であった)によって設立された。彼らの関心は地元の人々の教育におかれていた。インドネシアの歴史において、このような組織の出現がナショナリズムの起源と見なされる。後に〈ブディ・ウトモ〉はその観念を社会改革とモダニズムの上に展開させた。1935~36年に国内のほぼすべての研究者や知識人が参加して、近代性がいかにインドネシアにおいて役割を果たし得るかということも含めて、独立国家としての地位や将来が議論された際、これらの思想は明確になった[5]

 

そのころ、スジョヨノは他の数名の画家とともにジャカルタで〈インドネシア画家連盟〉(略称〈プルサギ〉)を設立した。1937年のことである。この会が存続した4年間に約30人の会員が集まった。アグス・ジャヤ、アプドゥル・サラム、スチョソ、ヘルベルト・フタガルン、オットー・ジャヤ、モフタル・アピン、エミリア・スナッサ等の画家が会員となり、中でも話したり書いたりする能力に長けていたスジョヨノはプルサギの代弁者として活動した。

 

当時、植民地支配層に対する抵抗の精神は熱気を帯びていた。芸術サークルヘの関与をオランダ人や貴族のみに制限した植民者の支配に反抗し、〈プルサギ〉の画家たちは、インドネシア人も同様に絵画を描き独自の様式を展開することができると公言した。そのころ近代画家として認められていた画家はほんの数人だけだった。彼らは、当時、新しい様式を採用し始めたオランダ人画家であった。その絵画はプリミティヴィスム、シュルレアリスム、ドイツ表現主義、ポスト印象派、そしてオリエンタリズムの影響を受けている。当時の著名なオランダ人画家の中にはヤン・フランク、ピエト・ウブルフ、ルドルフ・ボネ、W. G. ホフケル、W.ドゥーイジェワード、そしてヴァルター・シュピースがいた。

 

スジョヨノとバスキ・アブドゥラーの認識の対立は、インドネシアにおけるモダニズムの言説の重要な要素を示している。それはヨーロッパのモダニズムの言説とは中身においても時代設定においても異なるものである。このような新たな思想は、それが拒絶した保守的な価値と同様、この土地の現実に根差した地域的な産物である。この対立と議論の中からひとつの原理が残り、この地域らしいひとつの基礎となった。この基礎は今日まで有効で、芸術的感性や芸術表現が、前衛主義ではなく道徳的戒律と常に結び付くという考え方が支配的であることに反映されている。ここでは、進歩し、躍進するためには集団の意識の方が個人の可能性よりもはるかに重要なのである。

 

スジョヨノの態度を通して、反西洋の傾向がインドネシアのモダニズムの言説に現れた。しかしながら、それは東/西の二元論、あるいは近代/伝統の対立とはいかなる意味でも結び付くものではなかった。この二元論的対立の中に現れる西洋は、「西洋の文化」に関係するというより、むしろより大きな共同体での生活の中での西欧人の立場の結果である。植民者はジャワの封建社会の人々とともに、芸術の展開の中でエリート集団を構成し、保守的な美学を確立したといわれる。実際に変化と社会改革を起こそうという目的を持ち、西洋近代の芸術思想を採用したのは地元の反抗者であった。

後に積年の議論となった東/西の二元論は日本の占領 (1942~45年)とともに現れた。日本軍政府は、知識人や芸術家を動員して東洋の文化を発展させ大東亜の人々の向上を促すことが必要であると感じていた。第二次世界大戦前夜に起こった民族意識の目覚めは、この日本の作戦と直接に関連している。ナショナリズムの問題を提起していたインドネシアの知識人たちは、1904~5年の日露戦争において日本が勝利を収めたことで、日本人が提案した「東洋性」という概念に直ちに魅了された。この場合、ロシアは、オランダ人植民者たちと同様「西洋」と見なされた。1943年、芸術活動の施設を含む「啓民文化指導所」が設立され、(インドネシア的なモダニズムの出現によって)変化しつつあった絵画芸術は、たちまち全く異なる観点に基づく新しい見方を経験することになった。

 

 

4 独立と「インドネシア性」の探求

 

1945年、日本の降伏後まもなく、インドネシアは独立を宣言した。しかしオランダは連合軍の援助を得て再び占領をおこなったのである。政治的・軍事的反乱が群島中に巻き起こった。絵画は独立を保つための闘いと一体となった。画家と政冶の指導者たちは、独立を求める闘いにおいて芸術が重要な役割を果たせると信じていた。

 

このような状況において、「インドネシア性」という考えが浮上してきたのである。それは「東洋性」の問題から発生し、中心的な課題になっていった。これについてスジョヨノはこう書いている。「……我々の絵画はいまだインドネシア的な特性や様式を持ってはいない。もし我々が自身を確立することによって自分の魂に直接に語りかけるならば、実際に自身の特性を明確にする手段が必要である。……しかし我々はラデン・サレー、アブドゥラー・スリオスブロト、ピルンガディ(訳注「ムーイ・インディ」の画家、1875~1936年)の時代から今日の画家に至るまで、他者によって提示された型を追い続けているために、我々の真の自己を形成できないままになるだろう。[6]

 

しかしながら、「インドネシア性」という観点から見て、スジョヨノは、それを明確化しようとする知的努力よりもむしろ「正直さ」の方が重要であると見ている。「魂に自らのことを直接に語りかけるならば……」とスジョヨノは言う[7]。この「正直さ」には道徳的な意味合いが含まれている。芸術家ないし画家は倫理的に高潔であるとスジョヨノは信じていたようである。画家は「たとえ神を敵にまわすことになっても、生き、貧困に直面し、真実を愛し、真実のために闘う勇気を持ち、謙虚でなければならない。しかしそれと同時にガルーダ(神話上の鷲に似た鳥)のように尊大でなければならない」のである[8]

 

スジョヨノの見解はその時代の状況に関連した社会的価値としての「インドネシア性」をめぐる議論の反映である。それは「悲しい顔を持ったインドネシア」––––長い間抑圧に苦しんだ社会、進歩と発展に取り残され、戦争のためにさらにひどい貧困と混乱へ陥れられた人々、自らの文化を圧迫され、抑圧され、辱められた人々のいる、自己認識や自身の過去に対する誇りを持てない社会である。

 

この現実がインドネシアのモダニズムの言説の中で、「インドネシア性」という論議の最も重要な基礎である。「インドネシア性」という概念は「東洋性」についての議論を通して現れたが、それは東/西の二元論とは直接には関係なかった。その議論は東洋らしさもインドネシアらしさも提示しなかった。むしろ厳しくつらい、悲しみと不公平に満ちた現実の断層を映し出すものであった。絵画制作においては、「民衆」を主題とする作品にこの「インドネシア性」の反映が見られる。そこには素朴な人々の日常生活や貧困、生活のための闘い、怒りや生存の有様が描き出されている。畏怖や目覚め、詩的・叙情的感覚の入り混じった、ありのままの感情に基づいてこのような主題が選ばれ、描かれた。絵画は畏怖と怒りとの間にある感情の揺れ動きを反映しており、それが絵画を本質的に表現的なものにした。しかしモチーフの配置はしばしば叙情的に見えた。

 

インドネシア性についての論議において本質と見なされるべき重要なことは、インドネシアを近代へと押しやった変化を経験した植民地時代に関する記憶の強烈さである。それは近代性を(知的というよりは感情的な)進歩ではなく、革命的な変化の結果であると思いたいという願いゆえに、近代性という概念の一部となった。強烈な記憶によって、西洋はインドネシア的なモダニズムをめぐる論議の中で「権力」と抑圧の象徴となった。西洋についてのこの認識は、外国嫌い、反西洋または国粋主義的な態度へと成長する憎しみのようなものを含んでいる。それは、絵画を制作するときに、西洋の影響をできるだけ排除しようとする傾向となって現われた。インドネシア的なモダニズムをめぐる議論が独立後の舞台に現れるのが遅かったのはこのためである。また、このことは、西洋のものと考えられる世界の近代美術において発展した思想や様式、概念をインドネシアの近代美術が採用する場合に、選択が非常に厳しくなる原因となった。

 

わずかな開放のきざしがジャカルタにのみ見られた。1946年、画家モフタル・アピン、バハルディン・マラ・スタン、ヘンク・ンガントゥンらは詩人シャイリル・アヌアル、アスルル・サニ、リヴァイ・アピンとともに〈グランガン(闘技場)〉と呼ばれる団体を設立した。この団体はインドネシアのアイデンティティを模索するばかりではなく、進歩を促進することを目指していた。「社会を腐敗させる古い構造を捨て、新たな力の出現が可能となるように、古い定まった価値とそれによる支配に挑んでいく」ことが彼らの基本的な考えにあった[9]。この運動の開放性は全く明確であった。1950年の「グランガン宣言」において次のように述べている。「我々は世界の文化を継承し、自身のやり方でこの遺産を発展させる意志を持つ。[10]

 

 

5 ジョグジャカルタのモダニズム 社会性と装飾性

 

反西洋の意識の激しさのために、インドネシア的なモダニズムの言説が比較的閉鎖的となったことから、インドネシア近代美術の展開において「カグナン」の枠組みがより明白になった。この枠組みの中では、道徳的側面や怖れの感情、目覚めの感情は美の感覚と同様に探求されるべき主要な問題である。絵画芸術の中では、モダニズムの信念はひとつの表現として、また感情から流れ出るものとして現れた。この畏怖の感就は、我々がよく知るようになったモダニズムにあるようなヴィジョンを含む表現からはかけ離れたものである。

インドネシア的なモダニズムの言説に、二つの重要な側面が見られる。それは道徳性と叙情性である。インドネシアの近代美術の展開において、これら二つの要素はその主要な方向となったように思われる。「ジャグジャ派」として知られる一派の基礎となったのがこの傾向であった。

このグループは、1950年のジョグジャカルタにおける美術アカデミーの設立と関連を持っている。1968年、このアカデミーは芸術大学となり、現在はインドネシア芸術大学の美術デザイン学部となっている。道徳性への信念から、ジョグジャ派には庶民や共同体を主題とする傾向が見られる一方で、真実の源として正直さ・感覚・感情を信じることが表現的な絵画を生んだ。この流派においては、インドネシア性と社会への係わりが重要な課題となった。ジョグジャ派がインドネシアの近代美術の主流となったとしても驚くにあたらない。ジョグジャ派と関係した画家としてはクスナディ、アバス・アリバシャー、ファジャル・シデイック、エディ・スナルソ、カルティカ・アファンディ、ハンドゥリジョ、イダ・ハジャル、バゴン・クッスディアルジョ、サプト・フドヨ、ジョコ・プキ等の画家がいた。

 

ジョグジャ派の展開において「カグナン」という枠組みの影勝を示す重要なしるしは「デコラテイヴィスム(装飾主義)」(それは「装飾美術」として分類されるべきではない)の出現である。1940年から50年にかけて現れたこの傾向は、線と平面的な形態と色彩の用い方に特徴がある絵画様式である。描かれたそれぞれの形態は、注意深く構成された、平面的な形に置き換えられている。この様式を確立したのはカルトノ・ユドクスモであった。この様式で描かれた彼の初期の作品の中には、ウォノサリの地でのゲリラ戦の窮地を描いたものがある(1947年)。数人の弟子とともにバリ島で制作していた1940年代に、カルトノは装飾的様式を採用した。彼は装飾性がインドネシアの視覚芸術、とりわけその装飾、技巧、叙情性の特色をよく示していると考えたことから、この様式を意識的に取り入れた[11]。1950年、ヘンドラ・グナワンはカルトノの志を継いだ。当時影響力を持っていたこの画家を通して「デコラティヴィスム(装飾主義)」はジョグジャカルタの多くの重要な画家たちに広まった[12]。ウィダヤットはヘンドラの後継者の一人であり、後に「デコラティヴィスム」が広まっていくのに重要な影響力を持つ訓家となった。ウィダヤットの手によってこの「デコラティヴィスム」 はまた別の展開をたどり、様々な世代の画家たちへ広まっていった。その中にはスパルト、G. M. スダルタ、ムルジャディ、イダ・ハジャルそしてニョマン・グナルサがいた。カルトノやヘンドラの作晶では常に実際の描くべき対象があったが、この展開において画家たちはもはや描く対象やモデルを必要とはしなかった。主題は美学的な諸要素によってひとつの構図にまとめられている。その時対象は一般的なもの、不特定のものとなっている。たとえば、ある人物像は特定の個人ではなく、人類一般の像となる。この展開において、個人の思想や感情(美術家とその対象との間の感情的な相互作用)を反映する表現的な形式から象徴主義(スザンヌ・K. ランガーの言葉に従えば「象徴」、より正確には「象徴化の創造」)への移行が起こったのである。

 

 

6 バンドゥンのモダニズム 造形性と叙情性

 

しかしながら、インドネシアの近代美術において、ジョグジャ派は唯一の流れではない。この展開において同様に重視されるべき流れがバンドゥン派である。この一派にはその開放性のために折衷的な展開が見られる。そこではポスト植民地論議が1950年代という非常に早い時期に現われた。その議論はもはや、明らかに植民地時代の記憶とは結び付いていない。またその背後にある言説には外国嫌いや反西洋の意識はない。このバンドゥン派の展開において、世界の近代美術の影響は疑いなく最も明白である。バンドゥン派において「グランガン」連動の創始者、モフタル・アピンの存在は重要な要素であると思われる。ベルリンやアムステルダム、パリ(ここで彼はレアリテ・ヌーヴェル[訳注 「新しい現実」の意で1946年から毎年フランスで開催される抽象美術展]の運動に加わっている)での芸術家としての経験をふまえると、モフタル・アピンはモダニスト(西洋的な意味での)であると考えるべきであろう。しかしながら、バンドゥン派において、モダニズムの基本的原理を真に理解していたのはおそらく彼一人であろう。

 

ジョグジャ派と同様にバンドゥン派もまた1947年に設立された美術アカデミーと関連を持っている。当初、このアカデミーはオランダ人講師リース・ムルデールの指導による美術教師の教育施設であった。1951年にはリース・ ムルデールの助力を得てシャフェイ・スマルジャがこれを美術アカデミーヘ変えた。1958年にモフタル・アピンがヨーロッパから帰国したことによりこの学校は強化された。1959年にはリース・ムルデールはこの学校から離れている。現在はバンドゥン工科大学美術デザイン学部として存続している。アハマッド・サダリ、ブット・モフタル、スリハディ・スダルソノ、A. D. ピルースポポ・イスカンダルグレゴリウス・シダルタ·スギジョ、リタ·ウィダグト、ファリダ・スリハディ、ユスフ・アフェンディ、T. スタント、カブル・スアディらの画家がこの派に関係している。

 

モダニストの伝統が採用されたのはこのバンドゥン派においてであった。この大部分の画家たちが美術というものは普遍的な現象であると信じていた。彼らはモダン・アートが国境の枠に収まるとは思わなかった。彼らの作品のほとんどがフォーマリズムを明らかに探求している。アハマッド・サダリやスリハディ・スダルソノを通して、抽象が1960年代に若い芸術家の間に広まっていった(しかしながらスリハディは基本的にジョグジャ派と結びついており、1970年代には具象美術に戻っている)。もちろん、バンドゥン派はジョグジャ派やインドネシアのほとんどの美術批評家から批判された。バンドゥン派の画家たちはインドネシア美術の展開に属していないかのように見なされた。当時の雄弁な批評家であった故トリスノ・スマルジョは、バンドゥン派の姿勢 を「反国家的」であると侮辱した。バンドウンの美術アカデミーは「西洋の実験室」であるというトリスノ・スマルジョの言葉は、後にバントゥン派の「レッテル」となった[13]

 

しかしながら、 バンドゥン派はモダニストの伝統を完全に取り入れたわけではない。視覚芸術の枠内で、彼らの造形的な探求が専ら本質の追究としておこなわれたという兆候はない。ここでは形態(言語) は依然としてひとつの芸術的な手段と見なされており、それが現実(主として描く対象や自然)との感情的な相互作用の結果としての感覚や衝撃を表現するのである。したがって、このモダニスト的な傾向は、見方によれば、依然としてリアリストの伝統のうちにある。バンドゥン派において制作された抽象絵訓は非再現的な絵画に分類することは決してできない。後に明らかになるように、この視覚的現実の探求は方向を変えて叙情性へと展開していく。

 

バンドゥン派の造形上の配置や視覚要素の構成の裏にあるこのような感性は、ここでも叙情的な感覚の表現に基づいている。庶民という主題やインドネシア性の間題はバンドゥン派では強調されなかったが、「カグナン」という枠組みが影響していることは否定できない。 たとえば、アハマッド・ サダリ(バンドゥン派のパイオニアの一人)の絵画の厚く美しい表面の画肌は、ある自然のものがひび割れていく過程を見るときの感傷的な感覚を描き出している。アフマッド・サダリの抽象絵画のほとんどには、自然の力や神の意志の力についての彼の見方が表現されている。

 

インドネシア近代芙術における伝説的な論争であるジョグジャ派と バンドゥン派の長年の対立にもかかわらず、「カグナン」的な枠組みに関連した叙情性という意味では、両者の間には何ら本質的な違いは見出されないのである。

 

[1] Sanento Yuliman. “Sebuah Pengantar,” Seni Lukis Indonesia Baru, (Jakarta: Jakarta Art Council, 1976), 7.

[2] ジャワ文化——それは17世紀以降、西洋的価値観の影響をも同化してきた——には「美術」を意味する「カグナン」という言葉がある。文化の文脈では、この用語は「カグナン・アディルフン kagunan adiluhung」あるいは「高級芸術(ハイ・アート)」として知られる。「カグナン」という言葉の定義は、ラテン詔の「自由学芸 artes liberales」あるいはギリシア語の「音楽の技術 mousike techne」として理解されているものに近い。ただし、芸術の感性をめぐるプラトンの前提と、このふたつの用語の真意が完全に「カグナン」に適用されるわけではない(当時はそれが文化的な同化の結果だったが。)「カグナン」の定義には、感覚を基本とした人格の高潔さ(道徳的な意味での)があげられる。中東部ジャワ話の辞書によると、「カグナン」は(1)賢さ、(2)慈善的活動、(3)高潔な人格のために知性・感性があふれでていることと定義され、それが絵や彫刻、作曲、歌詞のような美的感覚を生み出すとされている。

[3] S. Soedjojono, “Basuki Abudullah dan Kesenian Meloekis,” Seni Loekis, Kesenian dan Seniman (Jogyakarta: Lndonesia Sekarang, 1946), 16.

[4] Sanento Yuliman, “Berberapa Masalah dalam Kritik Seni Lukis di Indonesia,” 1968年、バンドゥン工科大学美術テザイン学部の学位論文。Chapter 6 “Modernism,” 130.

[5] この議論にかかわるすべての論考は以下の形で出版されている。Polemik Kebudayaan, Achadiat K. Mihardja (ed). (Jakarta: Pustaka Jaya, 1977).

[6] “Menoedjoe Tjornk Seni Loekis Persatoean Indonesia Baroe,” Seni Loekis, Kesenian dan Seniman. 11–12.

[7] Ibid.

[8] Seni Loekis, Kesenian dan Seniman. “Kesenian, Seniman dan Masyarakat,” 74.

[9] “Gelanggang” Preamble (November 19, 1946).

[10] Surat Kepertjajaan “Gelanggang Seniman Merdeka,” Indonesia, February 18, 1950.

[11] カルトノの後継者バタラ・ ルヒスとのインタヴューによる。

[12] 両家H.ウィダヤットとのインタヴューによる。

[13] Mingguan Siasat, Decemeber 5, 1954.

 

(イメージ画像)

ジョグジャカルタは壁画だらけ

ジョグジャカルタの「アートジョグ」入口の彫刻

オートバイだらけ

 

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プルサギ

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