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ベトナム Vietnam

ベトナム近代絵画の歩み 

ベトナム戦争終結まで

 

後小路雅弘

(元福岡アジア美術館学芸課長・

現北九州市立美術館館長)

初出=『ベトナム近代絵画展』(2005年)

 

 

1 黎明期の近代 1925年以前

 

1887年、フランス領インドシナ連邦が発足し、インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)のフランスによる植民地体制が完成する。インドシナの文化芸術における「近代」という新たな時代は、植民地宗主国フランスの文化を受容し、ある面では受容させられる形で始まる。美術より早く建築の分野で西洋化が見られ、フランスの建築家によって、サイゴン大教会(1880年)やサイゴンの市民劇場(1898年)、中央郵便局(1891年)など、西洋式建築を南国仕様に仕立てた建築が作られた。また、1920年から10年以上かけて造営されたカイディン帝廟は、フランスと伝統的な建築のハイプリッドによって、植民地ロココ様式とも呼ばれる特異な様式の建築となった。美術の分野では、パリの国立高等美術学校に学んだレ・フイ・ミエンが1895年ハノイに戻って、初めて麻布に油絵を描いた。彼は、西洋絵画の移入という意味で先駆的な役割を果たしたが、後進を育成せず、ベトナム近代美術史においては、孤立した先駆者と言えよう。

 

また、ハノイやサイゴンには職人養成を目的とする学校がいくつかでき(ビエンホアに1903年、ザーディンに1913年)、ハノイのインドシナ美術学校の創立による本格的な近代美術の幕開けの、土台の役割を果たした。

 

 

2 インドシナ美術学校と近代美術の幕開け 1925~45年

 

1925年に、フランス人画家ヴィクトール・タルデューが、ハノイにインドシナ美術学校を設立、仏領インドシナ全土から生徒を選抜し、本格的なフランス式の美術教育を開始した。そこから、多くのベトナム近代美術の開拓者たちが巣立っていった。

 

この時期は、いわば、ベトナム近代美術の基盤が築かれる時期であり、制度的な枠組みが形成されていった時期でもある,油絵、絹絵、漆絵といった今日まで続く、ベトナム近代美術の技法が開拓され、定着し、ひとつのジャンルとして形作られていった時代であった。

 

油絵に関しては、タルデューはじめフランス人教授陣が教育し、絹絵に関しては美術学校第一期生グエン・ファン・チャン(1925~30年在学)が、ほとんど独力でこの独特の魅力を持った技法を開拓し、成熟させていくことになる。また、1930年代には、グエン・ザー・チーが、それまで工芸の技法であった漆を用いて近代的な鑑賞用絵画を作りだした。1939年、彼は長年の漆技法の研究成果を問う個展を開催した。こうした漆技法の発展には、インドシナ美術学校教師のジョゼフ・アンガンベルティが、1927年に漆芸のコースを作ったことや、さらには、1937年に美術学校の美術科のカリキュラムに漆が採用されたことなど、学校教育の果たした役割が大きい。

 

1931年パリで植民地博覧会が開かれ、そこで誕生間もない美術学校の教員・生徒による展覧会が開催され好評を博したし、1937年のパリ万博でもインドシナ美術学校展が開かれ、とくにエキゾティックな絹絵が人気を集めたと言われる。

 

1934年5月にはSADEAI(安南芸術工業振興協会)が創設された。この国で最初の、職業的な芸術家組織であり、タルデュー自身が会長を務め、事務局は美術学校内にあった。SADEAIは、1935年と37年、ハノイでサロン(公募コンクール展)を開催した[1]。美術教育や展覧会などの制度、あるいは油絵、絹絵、漆絵などの個々の技法が開発され、根付いていく時代であった。

 

植民地体制下とはいえ、ハノイやサイゴン(現ホーチミン)などの大都市には、都市文化が開花し、そのような雰囲気を反映した、華やかでモダンな絵画が、ジャンルを問わず多く描かれた。とりわけ、この時代の絵画の主役は、民族衣装に身を包んだ若い女性たちであった。

 

1940年代に入ると、日本とフランスの二重支配となるが、1941年には日本の現代美術展がハノイで開催され、43年にはインドシナの現代美術展が東京、大阪、神戸、京都、福岡を巡回するなど、日本とベトナムの美術交流にとっては重要な出来事もあった。この展覧会を契機に3名の美術家(ナム・ソン、ルオン・スアン・ニー、グエン・ヴァン・ティ)が来日し、日本各地を回って作品を制作し、日本の美術家と交流をはかった。

 

1943年12月には、爆撃を避けて、インドシナ美術学校は三カ所に疎開した。応用美術科はフリィに、建築科と彫刻科の大部分はダラットへ、絵画科と彫刻科の残りはソンタイヘ移動した。1945年3月クーデターで日本軍が全権を掌握すると、美術学校は閉校を余儀なくされることになる。

 

 

3 抗仏戦争下の画家たち 1945~54年

 

日本の敗戦により、ベトナム各地でベトミン(越南独立同盟)が蜂起して権力を奪取し(八月革命)、ベトナム民主共和国臨時政府の名の下に、ホー・チ・ミン大統領が9月2日独立を宣言した。一方、インドシナの再侵略を目論むフランス軍は、南部を制圧し、翌1946年にはコーチシナ共和国を樹立。同年12月にはハノイで全面戦争が開始され、抗仏戦争(第1次インドシナ戦争)が勃発した。ホー・チ・ミンのベトナム民主共和国側は、ヴィエトバックの山間地に退いてゲリラ戦を展開して対抗した。南部ではフランスの傀儡政権である、バオダイを元首とするベトナム国が1949年に発足、これを米英も承認、民主共和国を中国とソ連が承認し、東西冷戦構造の中で、いわゆる「代理戦争」の様相を呈した。1954年5月ディエンビエンフーでフランス軍が壊滅して、フランスの敗北が決定し、7月にはジュネーヴ停戦協定が結ばれ、北緯17度線を境に南北が分離されることになった。

 

この間、1945年11月15日、ト・ゴク・ヴァン校長の下、美術学校はペトナム美術学校の名で授業を再開した。1946年には独立後最初の全国美術展が開かれ、新鋭タ・ティが《星祭り》で受賞し、ベトナム近代美術の新時代の開幕を告げた。しかし、平和な時代は束の間のことで、同年12月、フランス軍の再侵略によって、美術学校も閉校し、美術家たちはハノイを去りヴィエトバックヘ逃れた。ト・ゴク・ヴァンはそこで救国文化班を指揮し、版画スタジオを設立し、またグエン・トゥ・ギエムとともに、山間部で入手が容易な漆を研究し、緑色の漆を開発した。また、チャン・ヴァン・カンとタ・トゥック・ビンが情報宣伝ボスターの制作ワークショップを開催した。

 

1949年9月1日には美術学校が、レジスタンス美術学校の名称でヴィエトバックに開校。翌年にはグエン・ヴァン・ティとグエン・シ・ゴックが、ト・ゴク・ヴァン校長、チャン・ヴァン・カン、グエン・トゥ・ギエムの教授陣に加わった。

 

一方、戦時にあっても全国美術展は続けられ、1948年には「第2回全国美術展」がフート省シュアンアン村の椰子の森の中で開かれたし、1951年には第3回全国美術展が、トゥエンクアン省チエムホア県にて開かれ、300点を超える作品が出品された。内容的には時勢を反映したプロバガンダ的色彩の濃い作品が中心であった。

 

この時代には、タ・ティの作品に典型的に見られるようなヨーロッパ美術のモダニズムの受容と、戦時のナショナリズムの高まりを背景にした、戦争をめぐるリアリズム絵画が、流行した。共産党書記長のチュオン・チンとト・ゴク・ヴァンの論争は、このようなモダニズムとリアリズムのせめぎあいを反映するものであった。

 

1954年停戦を前に、ディエンビエンフーにおいてト・ゴク・ヴァンが戦死し、ベトナム近代美術のひとつの時代が終わった。

 

 

4 束の間の平和、国家の分断 1954~64年

 

1954年に「第5回全国美術展」は戦勝記念祭としてハノイ市立劇場で開かれ、かつてない多数の観衆が、9年間のレジスタンス期の作品を見るためにやってきた。美術学校は、ベトナム美術学校の名で、チャン・ヴァン・カンの指導のもとに再建された。

 

一方南部では、1954年12月31日に、画家レ・ヴァン・デが仲間とともに、サイゴン国立美術学校を設立し、多くの画家を育成した。1975年以後、ザーディン国立装飾芸術学校と合併して、ホーチミン市美術学校となり、現在はホーチミン市美術大学となっている。

 

1955年南部に、ゴー・ディン・ジエムを大統領とするベトナム共和国が発足。1960年には南ベトナム解放民族戦線が結成され、抗米戦争(第二次インドシナ戦争)に突入した。1963年南部で、仏教徒による反政府運動が激化する一方で、軍事クーデターが起こり、ゴー・ディン・ジエム大統領が殺害された。1964年8月トンキン湾事件が起こり、アメリカは泥沼の戦争に踏み込んでいく。

 

この抗仏、抗米のふたつの戦争に挟まれた10年間の美術にあっては、当初は、抗仏戦争の記臆が語られ、国民の間で、いわば歴史が共有される。ファン・ケ・アンのゲリラ地帯の行軍を描いた《タイバックの夕ベの思い出》(1955年 ベトナム文化情報省美術写真局所蔵)やディエンビエンフーの戦いを描いたズオン・フォン・ミンの《大砲を引き上げろ》(1957年 国立美術館所蔵)などがその代表的な作例である。しかし、次第に、絵画の主役は、戦う人々から、さまざまな分野で労働する人々に移っていく。農村や漁村、山間の村で、とりわけ力を合わせて働く人々が好んで取り上げられるようになる。同時に、発展する町の様子も人気の画題で、いずれも、戦禍を乗り越え国造りに励むこの時期のベトナムの時代の空気を反映するものであろう。

 

そんな中、都市の末端で暮らす人々や、忘れられた路地裏などを、哀愁のうちに描いたプイ・スアン・ファイの絵画は、その伝説的な生涯もあって、戦争終結後に国民的な人気を博した。

 

 

5 抗米戦争の中で 1964~75年

 

1965年米軍は、北ベトナムヘの恒常的な空爆(北爆)を開始し、アメリカにとって、戦争は次第に、出口の見えない泥沼の戦いと化していった。南ベトナムでは、グエン・ヴァン・チュー(のち大統領)、グエン・カオ・キ(のち副大統領)が軍事クーデターで政権を掌握し、強権的な政治で、北に対抗しようとした。1968年になると、南部各地で解放勢力がテト攻勢をかけて、米軍を圧倒し、翌1969年には解放戦線が南ベトナム共和臨時革命政府を樹立した。この年9月「ホーおじさん」の名で人々に敬われ、親しまれたホー・チ・ミン主席が亡くなった。

 

1973年にはパリ和平協定の調印がなり、米軍はベトナムから完全に撒退した。米軍の後ろ盾を失った南ベトナム軍は、解放軍の攻撃に総崩れとなった。1975年3月25日には古都フエが、3月29日には米軍の拠点であったダナンが、解放された。4月30日には、ついにサイゴンが「解放」され、南ベトナム政府は壊滅した。翌76年南北統一選挙が実施され、統一国会でベトナム社会主義共和国が発足し、フランスとアメリカを相手に戦われた、ベトナムの人々の長い戦いは、ついに終わり、ベトナムに平和が訪れることになった。

 

この時期のベトナム美術は、当然ながら、時代を反映した戦時色の強いものとなった。平和な時代とは、美術の担うべき社会的な役割自体が異なったものとなることもまた当然かもしれない。対アメリカとの戦いがベトナム人民の戦意を高めるべく描かれたが、そういう場合でも、激しい戦闘シーンがヒロイックに描かれるだけでなく、兵士と少数民族の交流や、兵士たちの行軍、銃後の暮らしなど、いわば戦時の中の人間の普通の暮らしが自然主義的なスタイルで描かれ、比較的抑制され調和のとれた表現となるのが、ベトナム絵画の特長といえよう。

 

この時期、北ベトナムのほぼすべての画家は、反米ポスターを描いた。戦線の後方、敵陣の奥深くでポスターが貼られ、ビラが配られたという。こうした情宣活動によって、画家たちも戦いに参加したのである。一方南部のゲリラ戦を直接戦った画家たちもまた、戦地で戦いの合問に絵を描き、スケッチをした。ホーチミン市美術館では、そうしたスケッチに一室を割き、またゲリラ戦で亡くなった画家たちの名を石碑に刻み、遺品とともにその戦いを後世に伝えている。

 

[1] (編注)このSADEAIのほか、ルオン・スアン・ニーを含むベトナム人画家たちによる自主的な組織Foyer des Artistes Annamites (FARTA、安南美術家の家)が1940年に結成され、1943年と44年に展覧会を開いている。この背景には、1937年のタルデューの死後にEBAI校長を引き継ぎ、SADEAIにも力をもつ彫刻家エヴァリスト・ジョンシェール(Évariste Jonchère、1892–1956)の工芸重視方針へのベトナム人画家からの批判があった。Phoebe Scott, Forming and Reforming the Artist: Modernity, Agency and the Discourse of Art in North Vietnam, 1925-1954, Doctoral Thesis, University of Sydney, March 2012, 68–74.

 

(イメージ画像)

ハノイの街

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