地域概要

朝鮮半島(韓国・北朝鮮) South Korea

朝鮮半島の近現代美術

 

金正善(キム・ジョンソン 東亜大学)

 

初出=『美術フォーラム21』21号(2010年5月)

 

 

朝鮮半島の近代美術は、日本統治時代に揺藍期を迎える。伝統画壇では、朝鮮王朝最後の画員(図画署所属の職業画家)であるチョ・ソクチン(趙錫 1853~1920)、アン・ジュンシク(安中植 1861~1919)らによって伝統画風が受け継がれる一方で、1911年には書画講習所を設立し、後進を育成した。また1918年最初の近代的な美術団体である〈書画協会〉が結成され東西美術の研究、後進の育成、公衆の高趣雅想の増進(趣味の高揚)を目的に掲げた。1921年には書画協会展を設け1936年第15回展まで毎年開催し、伝統絵画の近代化へ道を開いた。その後、1922年に朝鮮総督府が日本の文部省美術展覧会(文展)にならって組織し毎年開かれた朝鮮美術展覧会(1922~44)を舞台に次第に日本画の影響が強くなっていく。なお、朝鮮美展には、当初、東洋画、西洋画および彫刻・書の三部門が設けられたが、1932年には書部門が廃止され工芸部が新設されている。

西洋画は、最初期の日本留学生として東京美術学校西洋画科に学んだコ・ヒドン(高羲東1886~1965)とキム・グァンホ(金観鎬 1890~1959)によって始められた。特に卒業作として描いたキム・グァンホの《夕暮れ》(1916年、東京藝術大学美術館蔵)が、第10回文展で特選を受けるなど、当初の様式は、美術学校における教育に基づいて、外光派など日本的アカデミズムの影靱を強く感じさせるものであった。1920年代以降は、朝鮮美展が毎年開かれ、公募展における審査、受賞制度を通して、日本の官展の様式が広く受け入れられていくとともに、郷土色あるいは地方色(ローカルカラー)が称揚された。キム・インスン(金仁承 1941~)は、アカデミックで堅実な様式で、この時代の代表的な画家となった。また、この時期、朝鮮美展と在野団体では、植民地主義と民族主義という異なる立場からローカルカラーが追求された。《秋の或る日》で朝鮮美展の特選を受けたイ・インソン(李仁星 1912~50)は、ゴーギャンの影響を受けた赤土の農村風景を描いて高い評価を得た。〈緑郷会〉で活動したオ・ジホ(呉之湖 1905~92)印象派様式の土着化に努め、穏やかで明るい色調の中に、朝鮮的な風景を見出した。このふたりは日本統治期のローカルカラーを代表する画家と目された。

 

1930年代後半になると、1920年代に欧米に留学したチャン・バル(張勃)、ペ・ウンソン(裵雲成 1900~78)、イ・ジョンウ(李鍾禹 1899~1979)らが帰国し、東京への留学生も増加して、西洋画壇は、新たな段階を迎える。とりわけ欧米留学組の帰国は、洋画が日本の官展様式から離れ、より多様化していくきっかけとなった。彼らは、1934年朝鮮美展に抗して、キム・ヨンジュン(金瑢俊 1904~67)、グ・ボヌン(具本雄 1906~53)らが組織した〈牧日会〉(後に〈牧時会〉)のメンバーとして参加し、フォーヴィスムや超現実主義など新たな傾向の作品を出品した。ほかにも〈緑郷会〉や〈東美会〉など様々な在野の美術団体が結成され、西欧モダニズムの多様な様式が試みられた。

 

特にこの時期になると、日本の私立の美術学校に留学する人が増える。たとえばグ・ボヌン、 太平洋美術学校などで学び、独立展に出品、帰国後は〈牧日会〉を組織し、朝鮮美展の作風とは異なるルオーを思わせる表現主義的な様式で高い評価を得た。またキム・ファンギ(金煥基 1913~74)は、日本大学芸術学部に学び、自由美術家協会展に出品した。《ロンド》(1938年、国立現代)は、構成主義的な抽象絵画に新境地を開き、日本統治期の前衛的な作品として記念碑的な位置を占めている。文化学院で村井正誠に学んだユ・ヨングク(劉永國 1916~2002)、幾何学的な抽象絵画の可能性を追求した。帝国美術学校を経て二科展に出品したイ・クェデ(李快大 1913~65)、解放後に、ダイナミックな群像表現に民族の運命を象徴させた。彼は、朝鮮戦争後は北朝鮮で活動した。

 

このように、30年代の画壇では、グ・ボヌンやイ・ジュンソプ(李仲燮 1906~56)中心とするフォーヴィスム的な傾向と、キム・ファンギ、ユ・ヨングクらの抽象的な傾向のほか、シュルレアリスムやキュビスムなど多様な様式が試みられた。しかしこうした西欧モダニズムの受容と独自性の模索も、1937年の日中戦争勃発とともに 一時的に中断されることになった。

 

1940年代になって日本の戦時体制は、美術にも適用され、いわゆる「報国」をキャッチフレーズに軍国主義的な傾向が強要される。朝鮮美展ではもちろん、〈朝鮮美術家協会〉が創設され、銃後美術展が開催された。そこでは戦争や軍人、千人針などの時局的な主題が登場する。

 

なお、朝鮮美展は、戦況悪化にともない1944年の第23回を最後に廃止されている。朝鮮美展の開催は、結果として、多くの美術家の輩出を促し、底辺拡大に寄与したという面もあるが、国家とアカデミズムによる「官制芸術」を創出する日本の官展を模倣したものであり、植民地に中央画壇の官展風を再生産する上で中心的役割を果たすなど、韓国の近現代美術の形成と展開において必ずしも肯定的な影響を及ぼしたとも言えない。

 

解放後、朝鮮半島は、激しい政治的な混乱のなかで、極端な社会主義リアリズムと、純粋美術、伝統的な美意識を現代的に発展させるという様々な立場が混在していた。解放直後に左翼の〈朝鮮プロレタリア美術同盟〉、右翼的な〈朝鮮美術家協会〉が設けられる一方で、純粋抽象美術を志向した〈新写実派〉など様々な団体が活動した。こうした左右イデオロギーの対立の構図は、1949年の官展系の国展(大韓民国美術展覧会、1949~81)の開設と1950年の朝鮮戦争を機に、新たな時代を迎える。東洋画では、日本画の克服と伝統の回復が主張され、朦朧体や色彩画が批判される中、ホ・べンニョン(許百練 1891~1977)、イ・サンボム(李像 1897~1972)、ビョン・グァンシク(卞寛植 1899~1976)らが活躍した。また、1950年代以降になると、パク・レヒョン(朴峡賢 1920~76)、イ・ウンノ(李應魯 1904~89)ら伝統的画材を用いた非具象画も現れた。

 

西洋画では、国展において、朝鮮美展でも活躍したキム・インスンが、審査委員、運営委員として、韓国のアカデミズム形成に一定の役割を果たした。また、ソウル大学、梨花女子大学、弘益大学などに美術学科が設けられ、韓国国内における美術教育も充実していく。この頃、西洋画壇では、欧米との直接的な接触が増え、急速に発展していく。

 

1950年代からは非具象画が洋画の主体になり、国展にも1969年以後には、抽象画部が独立部門として登場する。他方、多様な前衛グループも登場し、〈現代美術家協会〉、〈60年美術家協会〉らのアンフォルメル運動は、1970年代にパク・ソボ(朴栖甫 1931~2023)ら〈エコール・ド・ソウル〉の画家を中心に韓国的美意識の追求として国際的に注目された「単色画」のモノクロミスムや、その対極にある社会的現実を反映した80年代の「民衆美術」へと展開されていく。1988年のソウルオリンピックを契機として美術表現の開放と国際化が進められるなか、ナム・ジュン・パイク(白南準 1932~20006)のビデオ・アートは、1990年代以後韓国におけるメディア・アートとインスタレーションの拡大に大きな影響を与えた。

 

一方、分断後の北朝鮮の美術は、社会主義リアリズムと、キム・ヨンジュン(前出、1950年に北に移る)、イ・ソクホ(李碩鎬 1904~71)らの没骨法を中心とする伝統的な水墨画が併存したが、1960年代後半キム・イルソン(金日成)の主体思想が強調されると、銅像や記念碑、壁画などが急激に量産され、絵画においても色彩人物画を主とする様式が確立される。再び水墨が流行するのは、キム・ジョンイル(金正日)によって朝鮮画の多様性が主張された1980年代になってからである。

 

(イメージ画像)

ソウル中心部に残る北村の伝統家屋

にぎやかな夜の街

国立現代美術館徳寿宮館

釜山市立美術館

 

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