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重要作家

ヘンドラ・グナワン
激動の歴史のなかで生まれた鮮烈な熱帯様式

名前(英語)
Hendra Gunawan
カテゴリ
絵画
地域
インドネシア
生年
1918
生地
バンドン(インドネシア)
没年
1983
没地
デンパサール(バリ島、インドネシア)

ヘンドラ・グナワンは、スジョヨノ、アファンディと並んで「インドネシア近代美術の父」のひとりであり、かつ、インドネシアで最も偉大な美術家のひとりとされている。それは彼の絵画の様式が一目でヘンドラの作品とわかる、非常に個性的なものであるだけでなく、国の独立運動に貢献し自国の文化や民衆を深く愛した人物であるからだ。にもかかわらず、その政治姿勢から長く投獄されたり左翼作家として敬遠されるなど、その生涯と評価はこの国の激動の近現代史に揺り動かされてきた。


●生涯

はじめはヨーロッパ様式の風景画家の塾で絵を学ぶが、1939年、インドネシア近代美術の重要作家アファンディ(1907~90年)との出会いによって画家となることを決意する。またスジョヨノ(1913~86年)らによる近代美術の歴史を学び、オランダ植民地下にありながら西洋美術の真似ではないインドネシア独自の美術を追求するようになる。

1940年代にはポポ・イスカンダル (1927~2000)、スジャナ・ケルトン (1922~94)らと出会い、ジャカルタを訪れて近代美術グループ〈プルサギ〉の活動を見たり、ジャワ島のチレボンなど国内各地を旅し、市場、工場、農場などの民衆の生活や風景画を描く。

1942年に宗主国オランダが日本軍に降伏すると、スジョヨノ、アファンディとともに〈プートラ〉( Peosat Tenaga Rakyat)に参加し、インドネシアの独立のためのプロパガンダのポスターを制作する。翌年にジャカルタの日本政府が設立した「啓民文化指導所」の展覧会で受賞。美術家として人民軍(Barisan Keamanan Rakyat)に参加。しかしこの戦乱期の作品はほとんど現存していない。

1945年8月17日にスカルノ新大統領が独立を宣言すると、独立運動(革命)の支援のためのポスターを制作、アファンディ、ケルトンらとバンドンで〈前線画家〉協会(Pelukis Front)を創立。戦線に参加してはスケッチを描き、独立運動を闘う画家として知られるようになり、代表作のひとつ《革命の花嫁》(1955年頃、ファタヒラ美術工芸博物館所蔵)が生まれる。

1946年にスジョヨノが結成した〈青年インドネシア美術家〉(Seniman Indonesia Muda)に参加するが、権威主義的なスジョヨノと離反し翌年に脱退。

オランダ軍がジャカルタを占領したので革命政府とともにヘンドラもジョグジャカルタに移り、この地のジャワ文化に目覚める。1947年にアファンディらと〈人民画家〉(Pelukis Rakyat)グループを結成。公共空間の建築や彫刻制作に参加、職のない若者たちにも絵を教える。1948年に最初のグループ展を開き、このグループの影響は全国に及んだ。

美術教育への熱意は、1950年1月、ジョグジャカルタでのインドネシア美術アカデミー(ASRI, Akademi Seni Rupa Indonesia)の開校につながり、ヘンドラも1957年まで同校で教える。《しらみとりとクロカン》(福岡アジア美術館所蔵)の制作はこの頃か。

「民衆のための芸術」を求めるヘンドラは、1950年代末頃から、インドネシア共産党(Partai Komunist Indonesia, PKI)傘下の〈民衆文化協会〉(Lembaga Kebudayaan Rakyat, LEKRA)[1]に注目され支援を受け、LEKRA中央委員会の会員、憲法制定議会の議員を務めるなど政治的にもコミットするようになる。そのために1957年バンドンに戻る。しかし1963~65年には「政治的正しさ」を求めるLEKRAと、政治からの文化の自立を求めるナショナリスト陣営の対立が表面化する。

1965年9月30日のインドネシア共産党の蜂起未遂(9・30事件)に続く共産党とそのシンパへの大弾圧と全国での虐殺が始まり、スカルノ大統領が失脚、スハルトが政治の主導権を握り、ヘンドラの死後まで長く独裁政権が続く。LEKRAの一員とみなされスカルノとも近かったヘンドラも1965年12月に逮捕されバンドンのクボン・ワル監獄で1978年5月15日まで13年間の長い獄中生活を送るが、その間も絵画の制作を許され、充実した作品群が生まれる。

出獄後の1979年には革命・独立を描いた作品が出品されるが、左翼として長く投獄された世評から作品販売は難しかった。

1980年にはバリに移住しウブドに住み、1983年死去。間もなく彼の作品は美術市場で高値をよび、大量の贋作が出回ることになる。


●作風

晩年になればなるほど特異な様式は奔放さを増し、幅4メートルを超える画面の巨大化とあいまって、作品の緊張感は失われ、大味な印象になる。1950~60年代作品はあまりにLEKRAのイデオロギーが見えすぎるという評価もあるため、1940年代の、リアリズムと様式の個性がバランスした時期の作品を高く評価する研究者もいる。

画題としては風景はまれで、ほとんどは人物画であり、それも演劇的に多数の人物がからみあって横長の画面を埋め尽くすような構成が多い。それは独立戦争など歴史的な画題にふさわしい構成だが、市場に集まる人々など、一般民衆の活気ある生活の場を表す手段でもあった。1950~60年代にはナショナリズムのプロパガンダや左翼的姿勢を示す作品が多かったが、ヘンドラの「民衆のための美術」(「美術のための美術」ではなく)という一貫した信念は、政治的イデオロギーと本質的に無縁だった。

しかしヘンドラの様式は、一般観衆に理解されやすい写実主義ではなく、またソ連や中国で推奨された「社会主義リアリズム」とも異質な、20世紀初頭のヨーロッパの表現主義を思わせるが、インドネシアの伝統芸術の影響も見逃してはいけない。人体は著しく変形され、肌は緑や青、ピンクに塗られ、輪郭線は曖昧になり、水彩画のような薄塗りの流動的な筆致により、前述のように多数の人物が凝縮され人体や物体は背景のなかに溶け込み、一見しただけでは何が描かれたかわからない作品も多い。熱帯の気候を思わせる、燃え立つような筆致、対象と背景の一体化はアファンディにもあるが、自然に反した色彩と、面的な表現はヘンドラ特有のものである。

現代の視点から特筆すべきことは、女性を描いても肖像画やヌードに限られたスジョヨノ、アファンディと比べると、ヘンドラには女性を主役にした作品が多いことである。彼女たちは身づくろいや市場の売り子、肉体労働者、さらにはゲリラ戦士として、男性のまなざしを満足させる美や官能性を前面に出すことが稀であり、主体的に生きる姿がえがかれる。ただし、しばしば誇張された乳房をもって子育てをする姿が多いのは、やはり作者の個人的な女性観を反映したものだろう。


●人物像

ヘンドラは幼少時より人形劇や舞踊を覚え、移動劇団に参加したり、若くして霊的な治癒をおこなう祈祷師dukunとしても活動した。このような、伝統的公演芸術の経験や霊的な力への信仰は、彼の絵画の非西洋的な様式や、多様な民衆への愛情にも影響している。

ヘンドラの少年時代の彼の育ての親は物乞いであり、そのことから、貧しい民衆への温かいまなざしを生涯持ち続けることになった。1946年、スカルノ大統領の支援のもとに独立後初の展覧会として立派な会場で開かれたヘンドラの個展にはスカルノも出席したが、多数の物乞いにも入場を許可したのである。そのいっぽうで、ヘンドラは巧みな話術をもち、誰と議論でしても負けることがなかったという。自作の詩を絵に書き込んだり詩人との交遊もあったヘンドラは言葉の表現者でもあった。強い信念と表現力、そして一貫したヒューマニズムが、ヘンドラを今もなおインドネシアの国民作家にしているのだろう。

(黒田雷児)

 

顔写真出典 Agus Dermawan T, Astri Wright, Hendra Gunawan: A Great Modern Indonesian Painter (Jakarta: Ir. Ciputra Foundation Jakarta, Archipelago Press, 2001), 7.

[1] LEKRAについては下記を参照。アンタリクサ(江上賢一郎訳)「拡大と向上 『人民日報』と〈LEKRA (人民文化協会)〉」、『闇に刻む光 アジアの木版画運動1930s-2010s』(黒田雷児、五十嵐理奈編)、福岡アジア美術館・アーツ前橋、2018年、104〜105頁。

図版

《しらみとりとクロカン》 1950年頃

福岡アジア美術館所蔵

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