[1] Stephanie Britton, “Biennials of the World: Myths, Facts, and Questions,” Artlink, Vol. 25, No. 3の統計による。Jim Supangkat, “The World and I: An Essay on Heri Dono’s Art Odyssey,” The World and I: An Essay on Heri Dono’s Art Odyssey (Jakarta: PT. Mondekorindo Seni Internasional, 2014), 22.
[2] Chronological Biography of Heri Wardono, The World and I, 251.
[24] Personal Interview with Heri Dono, Elly Kent, “The World and I: The Aesthetics of Collision and Failures; Heri Dono’s Participatory Art Projects,” The World and I, 220.
国際舞台への道
ヘリ・ドノは、最も国際的に幅広く活動しているアジア作家のひとりであり、その国際展参加頻度は、ツァイ・グオチャン、ヤン・フードンに次ぐという[1]。2011年には世界各地でふたつの個展を開き22ものグループ展に参加している[2]。それはこの作家の尽きることのないアイディアと多作さによるが、それだけでなく、美術の専門家ではない人をも、「インドネシア的」かつユーモラスな造形で魅了するからだ。彼の作品がこのような国際的訴求力をもつというのは、インドネシア特有の文化に根差しつつ、地域を超えて全アジアの美術の展開のなかでも新時代を切り開く革新性をもっていたからでもある。
首都ジャカルタに生まれたヘリ・ドノ(本名はヘリ・ワルドノ)は、はじめバンドンの名門工科大学で美術を学ぶが、そのヨーロッパ式の教育に飽き足らず、ジョグジャカルタの美術学校に移るが自主的に退学。のちの作品展開で重要なのは、1987~88年に、伝統影絵芝居ワヤン・クリの使い手(ダラン)スカスマンに師事したことである。スカスマンは普通のダランではなく、米国とオランダでグラフィック・デザイナーとしての勤務経験があり、従来の平面的な人形をよりリアルなオリジナル人形に作り変えることで保守的な業界では批判され排除されていた[3]。しかしもともとワヤン・クリは《ラーマーヤナ》《マハーバーラタ》などの伝統物語を通してジャワの民衆に道徳を教える役割や、政治や社会の時事的テーマを風刺的に扱う機能もあったので、伝統芸能を現代化するスカスマンの姿勢はのちのヘリ・ドノ作品を大ブレークさせることになる。
初期の絵画はミロかカンディンスキーを思わせる細かく彩色された生き物のような形態が対話する物語的な性格を持っていたが、のち人形の横顔に正面から見た眼をふたつ描く、ワヤン・クリの人形様式をとりいれたキャラクターが主役となり、インスタレーションなど多様な手段を用いるようになった後でも描き続けられる。奥行きを感じさせない同じ平面上で、演劇の一場面のように主に二人のキャラクターが対話したり闘ったり嘲笑しあったりする作品には、実在の政治家や政党、軍人などに基づく、当時のインドネシアの人ならわかる時事的な政治の寓意がこめられていた。たとえば《むだなおしゃべり》[4](1991年、福岡アジア美術館所蔵)は、長靴と階級章で示される軍人ふたりを描いているが、東ティモール・ディリでの「サンタクルス事件」に基づいている[5]。スハルト独裁政権下でニュース報道も検閲され言論の自由がない状況では、左の軍人の口のなかで向かい合う人たちのように、庶民は不確かな情報にもとづいて何の抗議もできずむだな会話をするしかないのである。しかも軍人のひとりは自分に銃を向け、もうひとりは片足であり、彼らもまた不条理な社会の犠牲者なのだ。
この《むだなおしゃべり》も含めて、ヘリ・ドノ作品の登場人物にはたいてい男性器がぶらさがっている。立体作品では羽のある天使も男性で表現される(女性形の天使もあるが)。それは権力も救済も男性に独占されている状況を示すのかもしれないが、小さすぎる性器を露出した情けない姿はキャラクターの滑稽さを強調する。インドネシア社会に蔓延する政治権力、紛争、汚職、政治家やマスコミの空疎な言葉など、目に見えない不合理を暴き出すために、自由な想像力でいかなる突飛な発想も許容できるワヤンやマンガの様式が適切な武器なのである[6]。
物体に命を与えるインスタレーション
ただし、以上のような絵画が作品として十分のインパクトがあっても、インスタレーションやパフォーマンスへの展開がなければヘリ・ドノの今日まで続く国際的な評価はありえなかっただろう。
1992年、ヘリ・ドノは、日本でのアジア現代美術の登場を決定づけた重要な展覧会「美術前線北上中 東南アジアのニューアート」に、絵画と小ぶりな立体作品[7]のほか、ワヤン・クリの上演形式を再現したインスタレーション《影絵物語》を出品する。翌1993年には、キャンベラ(オーストラリア)で《チェアー》(後述)を上演、同じくオーストラリアのブリスベーンでの「第1回アジア太平洋トリエンナーレ」に参加、またアムステルダムのグループ展に参加することで徐々に国際舞台に登場する。1994年には、それまでのアジア美術観を更新した画期的な表現と、福岡市美術館から世田谷美術館などに巡回することにより、初めて全国的な評価を得た「第4回アジア美術展」に出品、福岡でのワークショップ(滞在制作)で《チェアー》を再演する。これらオーストラリアと日本の展覧会以後、国際的な名声が高まり、光州、横浜、シドニー、サンパウロなど大型国際展の常連となっていった。
彼が国際的スターになる過程で生まれた代表作が、インスタレーションでは、初めて電気仕掛けを使った《うわさ話のガムラン》(「ガムランのざわめき」改題、1992~93年、福岡アジア美術館所蔵)[8]、《発酵する精神》(1994年、M+所蔵)であり、パフォーマンスでは《チェアー》だろう。《うわさ話のガムラン》は、27個の伝統楽器ガムランに固定した電気仕掛けの木槌が金属板を叩いて音を出すもので、録音したジャワの歌と日本の琵琶の音が流された[9]。音楽とはいえないランダムな音はどこかなつかしいが、民族的な情緒をもたらすどころか、人間不在の楽団は不気味でもある。《発酵する精神》は、作者自身の頭部をかたどった10体の人形が教室の机にすわってやはり電気仕掛けでひたすらうなずき続けるもので、教師あるいは政府のメッセージにひたすら受動的にうなずき続ける様子もまた不穏である。
前者は「もの」が自らの生命をもつように勝手に音楽をかなで、後者は生きた人間が機械で動く「もの」と化す。このような人間と物体の相互変換は、政治風刺にとどまるものではなく、人間と動物と想像上の生き物(神々、天使、悪魔、鬼、アニメやマンガのキャラクター)、そして「もの」が等しく生命(魂)をもつアニミズム世界観に基づいている。それは人間という特権的な主体(あるいは美術家)が物質や自然を支配し意味づけるのではなく、「彼(ヘリ・ドノ)にとっては対象objectが主体subjectでもあり、その逆もある――それは西洋思想ではありえないことだ。[10]」つまり主体と対象、現代と伝統、西洋と東洋という二項対立を超えて、人間一般も、美術家である彼自身も、生物と非生物と同等に雑多で巨大な世界のなかに存在する。そこから、「美術」という枠を超えた、以下のような彼の表現が生まれるのである。
生活世界の「文化」としての「ブリコラージュ」
私はみんなが思うように政治問題を問いかけているのではない。実際は文化を問題としているのだ。(ヘリ・ドノ[11])
この言葉が示すように、ヘリ・ドノは、「美術」にも「政治」にも還元できない「文化」の重要性をたびたび指摘する。「…彼が作品で触れる社会的・政治的問題に見られる批判的な視点は、文化的重要性を担う人々が直面させられる日常の問題を提示する表現[12]」だからである。より本質的にいえば、単に「美術」を拡大してマンガやアニメーションという造形芸術・視覚芸術を包含するだけではなく、また演劇・音楽・舞踊・映像などのジャンルを混同させる「インターメディア」を志向するだけではない。さらに広く、人形作り、染織や陶磁器などの伝統工芸、下町のラジオ修理工まで、西洋的「芸術」の範疇に入らない多様な技術による、ジャンルを問わず身の周りの安価な材料・技術を使った寄せ集め=「ブリコラージュ」(文化人類学者のレヴィ・ストロースの提唱した用語)による制作であり、それは人間の原初的な創造性を発揮したものなのだ。
このような、高級芸術もフォーク・アートも、伝統芸能も、現代の大衆文化も、職人技術も日用品生産も区別せずに、あらゆる「文化」をとりこむ姿勢から、ヘリ・ドノが、絵画と異なり美術家ひとりでは不可能な、複雑な技術と大掛かりな空間による作品を提示するためのコラボレーション(協働)を重視するのは当然だろう[13]。前述の福岡でのパフォーマンス《チェアー》では、京都の舞踏家(桂勘)、福岡のジャズ・ミュージシャン、大学生などの協働で可能になったものであり、《野生の馬》(1992年)ではジョグジャカルタの墓掘り職人をダンサーとして出演させ、オックランド(ニュージーランド)の《スマル[14]のおなら(Semar Kentut、英題PhARTy Semar)》には地元の美術学生らが、2003年のアジア太平洋トリエンナーレ(ブリスベーン)での《バングラン(Bangelan)》では子供たちが車の部品や食器を叩く演奏に参加した。そしてそこで演じられた《桃太郎》は、2024年、九州芸文館での個展[15]において、同館と福岡アジア美術館で再演され、福岡のミュージシャン(ガムラン・サークル、筑前琵琶奏者、日本民謡歌手ら)、公募による会社員や主婦計31人が参加した。
私は美的な感覚は集団性(collectivity)と関係があると考えるようになった。だから作品は個人の美的経験を反映するものだとういう美術学校では一般的な信念に反抗したわけだ。(ヘリ・ドノ)[16]
民衆文化からの創造
一見楽観的なこのような姿勢は、民衆の生活世界に価値と創造性を見出す点と、多様な人々との協働を重視する点において、実はインドシアの美術の、いや社会の近代化という大きな枠組でも意味のある、政治的かつ倫理的な選択といえよう。その原点にあるのは、インドネシア近代美術の原点といえるスジョヨノ(1917~86)の思想である[17]。スジョヨノは、西洋人(植民地統治者のオランダ人など)向けに描かれる美しい風景画(ムーイ・インディ)を否定し、インドネシア民衆の生活の実相を描くことを1939年の歴史的エッセイで主張したからである。さらに、ヘリ・ドノ初期絵画のタイトルになっている「ゴトン・ロヨン(Gotong Royong)」(相互扶助、助け合い)[19]は、独立の父スカルノ大統領の国家建設の原理でもあったのだ。1950~60年代には〈民衆文化協会〉(LEKRA)が文化人を民衆との協働に向かわせた。さらに、ヘリ・ドノが学生時代に出会った、インドネシア現代美術の転回点といえる「新美術運動」(1975~79年)におけるポップ・アートや都市の大衆文化への関心が加わる[22]。つまりヘリ・ドノは、これらインドネシア近現代美術の精神の継承と発展のうえに作品を展開させた点でも歴史的に重要な位置を占めるのである。
ヘリ・ドノの作品が世界各地で愛されたのは、外国人にはわかりにくい政治風刺だけでなく、ワヤン・クリに代表される伝統芸術の様式や手法を大胆に取り入れて、それまでのヨーロッパ20世紀のモダン・アートと地方色の混合という「亜流」から「アジア現代美術」を飛躍したからである。そこで参照されるのは、決して死んだ伝統の保存ではなく、失敗や敗北をおそれずに異質な要素をつきあわせることで[23]、常に更新され再創造される伝統なのだ。彼の作品はインドネシアの近代化の精神を展開させただけでなく、広くアジア、いや非欧米世界の芸術に新しい道を示したといっても過言ではないだろう。
私は正しい伝統をめざす。正しい伝統を創らなければいけない。だから私が作るものがぶつかりあって失敗と呼ばれても、悪いとは思わない。なぜなら、芸術は文化を導かなければならないからだ。(ヘリ・ドノ[24])
(黒田雷児)
[1] Stephanie Britton, “Biennials of the World: Myths, Facts, and Questions,” Artlink, Vol. 25, No. 3の統計による。Jim Supangkat, “The World and I: An Essay on Heri Dono’s Art Odyssey,” The World and I: An Essay on Heri Dono’s Art Odyssey (Jakarta: PT. Mondekorindo Seni Internasional, 2014), 22.
[2] Chronological Biography of Heri Wardono, The World and I, 251.
[3] Ibid., 86-88.
[4] 題名はこれまで《愚にもつかないおしゃべり》と訳されてきたが、英題Talking of Nothingとインドネシア語Omong Kosongおよび作者による画題説明を考慮して《むだなおしゃべり》とした。
[5] 1991年11月12日、東ティモールの独立をもとめる市民のデモにインドネシア軍が無差別発砲して400人以上が殺された事件。
[6] ヘリ・ドノに影響を与えたマンガは、アメリカの『フラッシュ・ゴードン(Flash Gordon)』、イギリスの『トライガン帝国(The Trigan Empire)』、インドネシアのマンガでは『Petruk Gareng』、『Put On』、マンガ掲載の新聞ではOm Pasikom, Panji Koming、アニメーションではディズニーの映画、『ハンナ・バーベラ(Hanna-Barbera)』、人形アニメの『スティングレイ( Stingray)』などである。アシスタントのアユ・アストゥティAyu Astutiから黒田雷児へのメール(2024年11月14日)による。
[7] このときの出品作品から、《芸術家は取り憑かれる》《むだなおしゃべり》《バッド・マン》が福岡市美術館に収蔵される。1994年の「第4回アジア美術展」からは《周縁の人々を見る》《うわさ話のガムラン》が同館に収蔵され、以上はのち福岡アジア美術館に移管された。
[8] 福岡アジア美術館所蔵。日本の禅寺を思わせる別バージョン《ガムラン・オブ・飲む(ノム)ニケーション》(1997/ 2020年)がNTTインターコミュニケーション・センター(東京)に所蔵されている。 また1998年の政変を扱った《ゴロゴロ・ガムランGamelan Goro-Goro》は作家蔵。
[9] ジョグジャカルタの電気技師との協働で作られたが、長期間の展示により故障が続き、制御機械を加えるなど何回も大掛かりな修理がおこなわれた。
[10] Irma Damajanti, “Reading the Personal Aesthetic Codes of Heri Dono,” The World and I, 132.
[11] Supangkat, 73.
[12] ジム・スパンカット(都築悦子訳)「コンテクスト(文脈)」、『ヘリ・ドノ展 映しだされるインドネシア』(古市保子編)、国際交流基金アジアセンター、2000年、33頁。
[13] ヘリ・ドノほかインドネシア作品のコラボレーション的性格については下記を参照。ジム・スパンカット(黒田雷児訳)「インドネシア美術に見るコラボレーション」、『第2回福岡アジア美術トリエンナーレ2002 語る手 結ぶ手』、福岡アジア美術館、2002年、112~113頁。
[14] スマルは、インドネシア版『マハーバーラタ』に登場する道化のひとりで、ワヤン・クリにしばしば現れる。
[15] ヘリ・ドノ《悲劇の喜劇》展(2024年3月9~24日)
[16] Kent, 199.
[17] Kent, 196.
[18] S・スジョヨノ(亀井はるみ訳)「インドネシアの絵画 現在そして来るべき日に」、『東南アジア 近代美術の誕生』、福岡市美術館・広島県立美術館・静岡県立美術館・財団法人東京都歴史文化財団・読売新聞社・美術館連絡協議会、1997年、204~205頁。
[19] スカルノから、「ドクメンタ15」(2018年)芸術監督ルアン・ルパにいたる「ゴトン・ロヨン」概念については下記を参照。廣田緑『協働と共生のネットワーク インドネシア現代美術の民族誌』(黒川典是編)、グラムブックス、2022年、429~435頁。
[20] LEKRAについては下記を参照。アンタリクサ(江上賢一郎訳)「拡大と向上 『人民日報』と〈LEKRA (人民文化協会)〉」、『闇に刻む光 アジアの木版画運動1930s-2010s』(黒田雷児、五十嵐理奈編)、福岡アジア美術館・アーツ前橋、2018年、104〜105頁。
[21] 「新美術運動」ついては廣田緑前掲書、143~149頁および下記を参照。熊倉晴子、グレース・サンボ―、深井厚志編『MAMリサーチ003 ファンタジー・ワールド・スーパーマーケット―インドネシア現代美術のアプローチ、実践、思考 1970年代のニュー・アート・ムーブメントから現在まで』、森美術館、2021年
[22] Supangkat, 49–50.
[23] 「敗北」(インドネシア語では「失敗」も意味する)はヘリ・ドノの重要な概念で、現在のジョグジャカルタのスタジオも「Studio Kalahan(敗北スタジオ)」と名付けている。同時にクリント・イーストウッド演じる「ダーティ・ハリー」ことハリー・キャラハン刑事にも基づく。Damajanti, 122-3.
[24] Personal Interview with Heri Dono, Elly Kent, “The World and I: The Aesthetics of Collision and Failures; Heri Dono’s Participatory Art Projects,” The World and I, 220.