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●伝統への反抗
タワン・ダッチャニーは2001年にタイ政府より「国家芸術家」[1]と認定されたようにタイ国内で最高の評価を受けた美術作家である。彼の作品は、「(タイ近代美術の指導者だった)シラパ・ビラスィーが確立した伝統美術の遺産と、新時代のモダンな、さらにはポスト・モダンな思考への移行期」[2]を示すものとして、タイ美術史に位置を占づけられ、いわばタイの「現代美術」の始祖ともいえる。しかし、ダッチャニーは、「国家芸術家」のなかでは例外的に多数の海外発表歴をもつとはいえ 、現在の国際美術界では十分に知られているとはいいがたい。ダッチャニーがアムステルダムに留学した1960年代後半のヨーロッパは、コンセプチュアル・アートやランド・アート、パフォーマンスなど、「非物質化」といわれる、「絵画」「彫刻」概念を崩壊させた過激な実験がおこなわれた時代だった。しかしダッチャニーが伝統的な絵画――それも時代遅れと見なされそうな具象絵画――から離脱することはなく、1990年代以後のアジア作品のようにインスタレーションや映像を扱うこともなかった。そのために、ダッチャニーの「近代性」は、表現手段の革新という観点からではなく、既成芸術・文化への批判と強烈な自己主張によると見ることもできる。実際、タワンが1991年の福岡市美術館の個展のため来福し同館のコレクション展を見たとき、タイ仏教寺院を描いた作品を見て、「こんなのはただのポスターだ!」と強く否定した。彼は、「クリーン(清浄)、クリア(明晰)、カーム(静寂)」(3C)で語られてきたタイ美術[3]に、野性的・野獣的な肉体とエロティシズムによる生命のエネルギーをもちこみ、それによって、聖と俗の激しい相克から深化させた仏教精神を再度称揚するという離れ技を行ったのである。
●タイ的な様式の追求
幼くして画才を見せたダッチャニーはバンコクに出て、はじめポーチャン美術工芸学校、のちタイ近代美術の発祥の地といえるシラパコーン大学で学んだ。同大学時代(1958~63年)には、タイ近代美術の指導者シラパ・ビラスィーから、「やみくもに描くのでなくちゃんと頭を使いなさい!」「達者な絵だがお前の描くものには生命がない!」[4]などときびしい批評を受ける。その努力の結果か、オランダ留学直前の大作《崇拝》(1964年、福岡アジア美術館所蔵)は、ヨーロッパ的な陰影法によるボリューム表現ではなく線描を重ねることで人体のダイナミックな動きを表している[5]。また後年の作品にも一貫して見られる、男性の筋肉質な肉体と、太陽崇拝のような原始的な信仰への関心もすでに明らかである。
1964~68年、難関のオランダ政府奨学金を得て、ヨーロッパの名門美術大学であるアムステルダムの王立美術アカデミーで学んだ。オランダ時代の作品が確認できないので留学とヨーロッパ文化との出会いによる様式的な展開は確認できないが、ダッチャニーによれば、影響を受けた画家として、ルネサンス以後の古典ではブリューゲル(父と子)、フェルメール、レンブラント、アルチンボルド、ウィリアム・ブレーク、ハインリヒ・フュースリーら、20世紀ではピカソらのキュビスム、ダリ、シャガール、ウィーン幻想派[6]などをあげている。
しかしダッチャニーの帰国後の絵画様式には、直接これらの画家の影響を見出しにくい。1970年代の絵画にはダリやアルチンボルドを思わせる複数の図像を組み合わせた怪奇趣味はあるが、西洋伝統絵画の緻密な描写、ボリュームや遠近表現よりも、線描を主体として画面全体を埋め尽くすような構成が多い。それはヨーロッパの真似ではない「タイ的」な様式の追求であり、そこで参照されたのが、仏教美術、特にダッチャニーの出身であるチェンライとその周辺に栄えた北タイのラーンナー様式や、当時のバンコクでのラトナコーシン様式だった。
特に様式の独自性を示すのが、1980年代以後に主流となる、色彩を使わないで黒だけ、あるいは赤や金を加えた、ほぼモノクロームで描かれた作品である。シンメトリーの構図や、微細な形象で画面を埋めつくす様式は、タイの壁画や装飾模様を思わせる。ダッチャニーは中国や日本の水墨画やインド絵画から影響され、視覚的喜びよりも、禁欲的な精神のエネルギーを重視するようになったのである。同じ志向は、中国や日本の書のような太い線で描いた絵画や、正確に微細な線を引けるボールペンの線描で陰影を描く作品にも共通している。実際、色彩豊かな作品よりも、モノクロームで描かれた作品のほうが今の眼でもインパクトが大きい。
●男性性=肉体性の両義性
しかしタイ国内のみならず全アジアの文脈でも、ダッチャニーが特別な存在といえるのは、このような特異な様式を確立しただけではなく、仏教や北タイの伝統文化に基づきながらも、きわめて挑発的・暴力的、ときには冒涜的ともいえる表現を切り開いてきたからである。
そこでダッチャニーについて必ず語られる事件がある。1971年、ダッチャニーがバンコクのインドラ・ホテルで開かれていたグループ展に出品したとき、80人もの学生が押し入り、展示されたタワンの絵画10点をカッターで切り裂き傷つけた。象の頭をもつ裸婦の絵が仏教を冒涜しているという理由だった。当時ダッチャニーはバンコクのキリスト教学生センターに滞在しており、キリスト教徒として仏教を侮辱したと誤解されたのである。
この事件が示すように、ダッチャニーの作品は、仏教精神を表現したものであっても、本質的に、暴力やエロティシズムに満ちている。タイ現代絵画では、パンヤー・ウィチンタナサーンらによる寺院の壁画様式を展開した「新伝統派」が知られている。それに対し、ダッチャニー作品に見られる動物的エネルギーや暴力性は、前述の「3C」の典型といえる静謐で瞑想的、現実逃避的な「新伝統派」とは対極にあるように見え、作家個人の強烈な欲望と個性が反映されている。彼の精神世界は、留学前の《崇拝》にすでに明らかなように、また、のちの作品がヒンドゥー教やチベット仏教など様々な図像を混ぜ合わせているように、制度化された正統な宗教というより、原始的な自然崇拝などの信仰に通じる「異教的」あるいは「秘儀的」なものなのだ。
それを象徴するのが一貫して登場する半裸の筋肉質の男性像であり、女性像はほとんど見られず、男性の身体エネルギーの発露ばかりが描かれる。次に重要なのは、獰猛な動物(虎、馬、ワニ)と猛禽類(鷲、フクロウなど)、セミ、カエルなどの生き物であるが、これらも男性像と同じく暴力的だ。これらの生き物は、現世における統御困難な暴力や、人間の理解を超えた生命力の象徴として、伏し目の仏陀の顔と対比され、瞑想による暴力の超克と魂の救済を表現している、と一応解釈できる。しかし、ダッチャニーが動物の毛皮、頭蓋骨、角、牙、さらにはナイフや日本刀までをコレクションしていたことから、これらの(人間を含む)生き物の攻撃力、武器としての物体・身体への固執は、悟りや救済が克服すべき否定的な対象というより、それ自体がダッチャニー独自の芸術表現の中核にあるというべきだろう。
ダッチャニーの肖像写真は多数残されているが、若いころのもみあげを伸ばした伊達男から、自作やコレクションなどの前で世界を抱きしめるように両手を広げたり傲然と胸をそらしたポーズからは、ナルシシズム(自己愛)がうかがえる。それもまた、伝統や既成文化への反抗と自己主張という、「近代」精神の発露というべきだろう。
●晩年および今後の評価
私が美術家としてめざすのは、非合理性(肉欲)を、帝国の支配者のように激しく、かつ正確に具現化することだけである。それによって、想像された世界と、統御された非合理性が、目に見える現実性に匹敵する持続力をもち、かつ深い意味と伝達可能な内容をもつようにすることだ。(タワン・ダッチャニー)[7]
前述のように、タイ文化のなかではあまりに暴力的で過激な作品はしばしば激しい反発や批判を受けたが、高名な作家・政治家であり首相も務めたククリット・プラーモート(1911~95年)はダッチャニーの作品を擁護し、今日にいたる名声を確立することになる。その強烈なカリスマ性から、1978~79年にはスイスやドイツの貴族に招かれて滞在制作をしたように、西洋人にも信奉者を獲得していった。国内外で名声を築き、高額で作品が売れ、功成り名遂げたダッチャニーは、故郷のチェンライに、自らデザインした様々な伝統様式による40軒もの建築による「バーン・ダム」(黒の家)を建造し[8]、亡くなる直前までそこで制作をつづけた。
このような晩年の名声にもかかわらず、「タイ人は仏教を理解しない」と言い続け、生前の展覧会では、自分の作品について書かれたものはまったく自分の芸術をとらえたものはないといって図録に批評家や美術史家による論考を掲載するのを拒否してきた[9]。2001年に「国家芸術家」と認定されたのも、同年の福岡アジア文化賞(芸術・文化賞)という海外からの評価の賜物だと言っている[10]のは、タイ国内で不遇の時代が長かったからだろうか。
ダッチャニーが亡くなった現在、若いころから晩年までの長い作品の展開をたどって作品に即して分析することで、作家の言葉の繰り返しにも、作品の図像的解釈にもとどまらない作品研究がすすめられるべきだろう。タイのみならず全アジアでもあまりに特異なダッチャニーの作品と言説が美術史に位置づけられるのは、そのような今後の研究をまたなければならない。
(黒田雷児)
注
[1] ダッチャニー以外に「国家芸術家」とされ、福岡アジア美術館で所蔵された美術作家では、チャルード・ニムサマー(1998年 以下カッコ内は受賞年)、プラトゥアン・エームチャルーン(2005年)、プリーチャ・タオトーン(2009年)、ウィチョーク・ムクダマニー(2012年)、パンヤー・ウィチンタナサーン(2014年)、タウォーン・コーウドムウィット(2021年)がいるが、これ以外の多数の美術家の受賞者を含めても、国際的に知られた作家はほとんどいない。
[2] Quoted in Kong Rithdee, “Thawan Duchanee: Losing a legend,” Bangkok Post, Sept 4, 2014.
[3] 石田泰弘「タワン・ドゥチャネー展」、『エスプラナード』54号(福岡市美術館、1990年1月)、4頁
[4] “Thawan Duchanee: Thailand’s Emperor of the Canvas”
[5] 福岡の所蔵品と画題が似た同年の作品がシンガポール国立美術館に所蔵されている。
[6] 1946年にウィーンで創立したグループで、正式名称はWiener Schule des Phantastischen Realismus(ウィーン幻想リアリズム派)。代表的な画家にエルンスト・フックス(Ernst Fuchs 1930~2015年)、ルドルフ・ハウザー(Rudolf Hausner 1914~1995年) らがいる。
[7] John Hoskin (text), Luca Invernizzi (photograpy), Ten Contemporary Thai Artists: The Spirit of Siam in Modern Art (Bangkok: Graphis, 1984), 70.
[8] タワンは建築にも造詣が深く、そのことは彼の福岡での講演でもうかがえた。「タワン・ドゥチャネー講演会より 『すべてが仏教だ』」、『エスプラナード』55号(福岡市美術館、1990年3月)、2頁
[9] 石田泰弘「タワン・ドゥチャネー展」、『エスプラナード』54号(福岡市美術館、1990年1月)、4頁
[10] “Keeping the Memory Aflame: An Interview with Thawan Duchanee,” (interviewer: Thavorn Ko-Udomvit), Art Exhibition “Trinity” by Thawan Duchanee, Luckana Kunavichayanont (ed.) (Bangkok: The Queen’s Gallery, 2004), 150.
シラパコーン大学
《崇拝》 1964年
福岡アジア美術館所蔵
《我》 1989年
《未来》 1989年(福岡アジア美術館所蔵)と
作者(福岡市美術館にて 1991年)
●伝統への反抗
タワン・ダッチャニーは2001年にタイ政府より「国家芸術家」[1]と認定されたようにタイ国内で最高の評価を受けた美術作家である。彼の作品は、「(タイ近代美術の指導者だった)シラパ・ビラスィーが確立した伝統美術の遺産と、新時代のモダンな、さらにはポスト・モダンな思考への移行期」[2]を示すものとして、タイ美術史に位置を占づけられ、いわばタイの「現代美術」の始祖ともいえる。しかし、ダッチャニーは、「国家芸術家」のなかでは例外的に多数の海外発表歴をもつとはいえ 、現在の国際美術界では十分に知られているとはいいがたい。ダッチャニーがアムステルダムに留学した1960年代後半のヨーロッパは、コンセプチュアル・アートやランド・アート、パフォーマンスなど、「非物質化」といわれる、「絵画」「彫刻」概念を崩壊させた過激な実験がおこなわれた時代だった。しかしダッチャニーが伝統的な絵画――それも時代遅れと見なされそうな具象絵画――から離脱することはなく、1990年代以後のアジア作品のようにインスタレーションや映像を扱うこともなかった。そのために、ダッチャニーの「近代性」は、表現手段の革新という観点からではなく、既成芸術・文化への批判と強烈な自己主張によると見ることもできる。実際、タワンが1991年の福岡市美術館の個展のため来福し同館のコレクション展を見たとき、タイ仏教寺院を描いた作品を見て、「こんなのはただのポスターだ!」と強く否定した。彼は、「クリーン(清浄)、クリア(明晰)、カーム(静寂)」(3C)で語られてきたタイ美術[3]に、野性的・野獣的な肉体とエロティシズムによる生命のエネルギーをもちこみ、それによって、聖と俗の激しい相克から深化させた仏教精神を再度称揚するという離れ技を行ったのである。
●タイ的な様式の追求
幼くして画才を見せたダッチャニーはバンコクに出て、はじめポーチャン美術工芸学校、のちタイ近代美術の発祥の地といえるシラパコーン大学で学んだ。同大学時代(1958~63年)には、タイ近代美術の指導者シラパ・ビラスィーから、「やみくもに描くのでなくちゃんと頭を使いなさい!」「達者な絵だがお前の描くものには生命がない!」[4]などときびしい批評を受ける。その努力の結果か、オランダ留学直前の大作《崇拝》(1964年、福岡アジア美術館所蔵)は、ヨーロッパ的な陰影法によるボリューム表現ではなく線描を重ねることで人体のダイナミックな動きを表している[5]。また後年の作品にも一貫して見られる、男性の筋肉質な肉体と、太陽崇拝のような原始的な信仰への関心もすでに明らかである。
1964~68年、難関のオランダ政府奨学金を得て、ヨーロッパの名門美術大学であるアムステルダムの王立美術アカデミーで学んだ。オランダ時代の作品が確認できないので留学とヨーロッパ文化との出会いによる様式的な展開は確認できないが、ダッチャニーによれば、影響を受けた画家として、ルネサンス以後の古典ではブリューゲル(父と子)、フェルメール、レンブラント、アルチンボルド、ウィリアム・ブレーク、ハインリヒ・フュースリーら、20世紀ではピカソらのキュビスム、ダリ、シャガール、ウィーン幻想派[6]などをあげている。
しかしダッチャニーの帰国後の絵画様式には、直接これらの画家の影響を見出しにくい。1970年代の絵画にはダリやアルチンボルドを思わせる複数の図像を組み合わせた怪奇趣味はあるが、西洋伝統絵画の緻密な描写、ボリュームや遠近表現よりも、線描を主体として画面全体を埋め尽くすような構成が多い。それはヨーロッパの真似ではない「タイ的」な様式の追求であり、そこで参照されたのが、仏教美術、特にダッチャニーの出身であるチェンライとその周辺に栄えた北タイのラーンナー様式や、当時のバンコクでのラトナコーシン様式だった。
特に様式の独自性を示すのが、1980年代以後に主流となる、色彩を使わないで黒だけ、あるいは赤や金を加えた、ほぼモノクロームで描かれた作品である。シンメトリーの構図や、微細な形象で画面を埋めつくす様式は、タイの壁画や装飾模様を思わせる。ダッチャニーは中国や日本の水墨画やインド絵画から影響され、視覚的喜びよりも、禁欲的な精神のエネルギーを重視するようになったのである。同じ志向は、中国や日本の書のような太い線で描いた絵画や、正確に微細な線を引けるボールペンの線描で陰影を描く作品にも共通している。実際、色彩豊かな作品よりも、モノクロームで描かれた作品のほうが今の眼でもインパクトが大きい。
●男性性=肉体性の両義性
しかしタイ国内のみならず全アジアの文脈でも、ダッチャニーが特別な存在といえるのは、このような特異な様式を確立しただけではなく、仏教や北タイの伝統文化に基づきながらも、きわめて挑発的・暴力的、ときには冒涜的ともいえる表現を切り開いてきたからである。
そこでダッチャニーについて必ず語られる事件がある。1971年、ダッチャニーがバンコクのインドラ・ホテルで開かれていたグループ展に出品したとき、80人もの学生が押し入り、展示されたタワンの絵画10点をカッターで切り裂き傷つけた。象の頭をもつ裸婦の絵が仏教を冒涜しているという理由だった。当時ダッチャニーはバンコクのキリスト教学生センターに滞在しており、キリスト教徒として仏教を侮辱したと誤解されたのである。
この事件が示すように、ダッチャニーの作品は、仏教精神を表現したものであっても、本質的に、暴力やエロティシズムに満ちている。タイ現代絵画では、パンヤー・ウィチンタナサーンらによる寺院の壁画様式を展開した「新伝統派」が知られている。それに対し、ダッチャニー作品に見られる動物的エネルギーや暴力性は、前述の「3C」の典型といえる静謐で瞑想的、現実逃避的な「新伝統派」とは対極にあるように見え、作家個人の強烈な欲望と個性が反映されている。彼の精神世界は、留学前の《崇拝》にすでに明らかなように、また、のちの作品がヒンドゥー教やチベット仏教など様々な図像を混ぜ合わせているように、制度化された正統な宗教というより、原始的な自然崇拝などの信仰に通じる「異教的」あるいは「秘儀的」なものなのだ。
それを象徴するのが一貫して登場する半裸の筋肉質の男性像であり、女性像はほとんど見られず、男性の身体エネルギーの発露ばかりが描かれる。次に重要なのは、獰猛な動物(虎、馬、ワニ)と猛禽類(鷲、フクロウなど)、セミ、カエルなどの生き物であるが、これらも男性像と同じく暴力的だ。これらの生き物は、現世における統御困難な暴力や、人間の理解を超えた生命力の象徴として、伏し目の仏陀の顔と対比され、瞑想による暴力の超克と魂の救済を表現している、と一応解釈できる。しかし、ダッチャニーが動物の毛皮、頭蓋骨、角、牙、さらにはナイフや日本刀までをコレクションしていたことから、これらの(人間を含む)生き物の攻撃力、武器としての物体・身体への固執は、悟りや救済が克服すべき否定的な対象というより、それ自体がダッチャニー独自の芸術表現の中核にあるというべきだろう。
ダッチャニーの肖像写真は多数残されているが、若いころのもみあげを伸ばした伊達男から、自作やコレクションなどの前で世界を抱きしめるように両手を広げたり傲然と胸をそらしたポーズからは、ナルシシズム(自己愛)がうかがえる。それもまた、伝統や既成文化への反抗と自己主張という、「近代」精神の発露というべきだろう。
●晩年および今後の評価
私が美術家としてめざすのは、非合理性(肉欲)を、帝国の支配者のように激しく、かつ正確に具現化することだけである。それによって、想像された世界と、統御された非合理性が、目に見える現実性に匹敵する持続力をもち、かつ深い意味と伝達可能な内容をもつようにすることだ。(タワン・ダッチャニー)[7]
前述のように、タイ文化のなかではあまりに暴力的で過激な作品はしばしば激しい反発や批判を受けたが、高名な作家・政治家であり首相も務めたククリット・プラーモート(1911~95年)はダッチャニーの作品を擁護し、今日にいたる名声を確立することになる。その強烈なカリスマ性から、1978~79年にはスイスやドイツの貴族に招かれて滞在制作をしたように、西洋人にも信奉者を獲得していった。国内外で名声を築き、高額で作品が売れ、功成り名遂げたダッチャニーは、故郷のチェンライに、自らデザインした様々な伝統様式による40軒もの建築による「バーン・ダム」(黒の家)を建造し[8]、亡くなる直前までそこで制作をつづけた。
このような晩年の名声にもかかわらず、「タイ人は仏教を理解しない」と言い続け、生前の展覧会では、自分の作品について書かれたものはまったく自分の芸術をとらえたものはないといって図録に批評家や美術史家による論考を掲載するのを拒否してきた[9]。2001年に「国家芸術家」と認定されたのも、同年の福岡アジア文化賞(芸術・文化賞)という海外からの評価の賜物だと言っている[10]のは、タイ国内で不遇の時代が長かったからだろうか。
ダッチャニーが亡くなった現在、若いころから晩年までの長い作品の展開をたどって作品に即して分析することで、作家の言葉の繰り返しにも、作品の図像的解釈にもとどまらない作品研究がすすめられるべきだろう。タイのみならず全アジアでもあまりに特異なダッチャニーの作品と言説が美術史に位置づけられるのは、そのような今後の研究をまたなければならない。
(黒田雷児)
注
[1] ダッチャニー以外に「国家芸術家」とされ、福岡アジア美術館で所蔵された美術作家では、チャルード・ニムサマー(1998年 以下カッコ内は受賞年)、プラトゥアン・エームチャルーン(2005年)、プリーチャ・タオトーン(2009年)、ウィチョーク・ムクダマニー(2012年)、パンヤー・ウィチンタナサーン(2014年)、タウォーン・コーウドムウィット(2021年)がいるが、これ以外の多数の美術家の受賞者を含めても、国際的に知られた作家はほとんどいない。
[2] Quoted in Kong Rithdee, “Thawan Duchanee: Losing a legend,” Bangkok Post, Sept 4, 2014.
[3] 石田泰弘「タワン・ドゥチャネー展」、『エスプラナード』54号(福岡市美術館、1990年1月)、4頁
[4] “Thawan Duchanee: Thailand’s Emperor of the Canvas”
[5] 福岡の所蔵品と画題が似た同年の作品がシンガポール国立美術館に所蔵されている。
[6] 1946年にウィーンで創立したグループで、正式名称はWiener Schule des Phantastischen Realismus(ウィーン幻想リアリズム派)。代表的な画家にエルンスト・フックス(Ernst Fuchs 1930~2015年)、ルドルフ・ハウザー(Rudolf Hausner 1914~1995年) らがいる。
[7] John Hoskin (text), Luca Invernizzi (photograpy), Ten Contemporary Thai Artists: The Spirit of Siam in Modern Art (Bangkok: Graphis, 1984), 70.
[8] タワンは建築にも造詣が深く、そのことは彼の福岡での講演でもうかがえた。「タワン・ドゥチャネー講演会より 『すべてが仏教だ』」、『エスプラナード』55号(福岡市美術館、1990年3月)、2頁
[9] 石田泰弘「タワン・ドゥチャネー展」、『エスプラナード』54号(福岡市美術館、1990年1月)、4頁
[10] “Keeping the Memory Aflame: An Interview with Thawan Duchanee,” (interviewer: Thavorn Ko-Udomvit), Art Exhibition “Trinity” by Thawan Duchanee, Luckana Kunavichayanont (ed.) (Bangkok: The Queen’s Gallery, 2004), 150.