日本初の継続的なアジア現代美術展
1979年に開館した福岡市美術館は、開館記念展の第一部として中国・インド・日本の近代美術の展覧会を、翌80年に、アジア13か国の現代美術を紹介する展覧会を開催した。これ以前にも複数の国からのアジア美術展や作家主体の交流展はあったが、公的機関(福岡市)による広範な地域をカバーする大型展覧会としては史上初であった。
その背景としては、古代からアジア文化の窓口だった福岡という都市の歴史のほか、国際造形芸術家連盟(のち「国際美術連盟」、IAA)の日本支部である日本美術家連盟によるアジア作家との交流や現地調査、そして戦前からアジアの美術・デザインを調査していた、福岡市美術館の建設専門委員であった小池新二の思想などが考えられる。その結果、いったん決定され出品交渉までおこなっていたアメリカ現代美術展をキャンセルし、開館記念展をアジア美術展に替えるという劇的な展開となった。
1980年展は13か国の国機関を主とする組織が選考した471作家の471点を展示。アジアからは近代美術のパイオニアとして重要な作家が多数出品していた。1985年には第2回展として継続開催の道が定まる。若手作家を中心に13カ国、268作家、368点が出品。特別部門として「バリの美術」が開かれた。この第2回展までは福岡を中心とする西日本の作家が多数出品しており、第2回展は九州各県に巡回したように、福岡・九州のローカル展の性格が強く、日本の美術関係者からはあまり注目されることはなかった。
1989年の第3回展では、作家・作品選考を各国機関にまかせず、学芸員で企画主体を担う方向が現れ、「日常のなかの象徴性」というテーマで作品傾向をしぼって展示した(15カ国、104作家、233点)。また、前2回でのシンポジウムに替わって作家どうしの交流のための版画ワークショップ(滞在制作)をおこない、制作された版画はポートフォリオとして日本各地の美術館にも収蔵された。第2回展に続いて韓国国立現代美術館に巡回したほか、横浜美術館にも巡回した。
1994年の第4回アジア美術展は「時代を見つめる眼」(英題が「態度としてのリアリズム」)というさらに先鋭なテーマで、政治的・社会的な主題の作品が多く含まれ、かつ、作家数を18カ国からの48作家、123点と大幅に絞り込んで各作家のスペースを増やした。作家の3週間の招聘により、当時東南アジアや中国で急成長していたインスタレーションとパフォーマンスを紹介することができ、現代美術展としても全国メディアに大きなインパクトを与えた。大がかりな影絵芝居の伝統を生かし日本の舞踏家と共演したヘリ・ドノ、館周辺や都心部でもおこなわれたリー・ウェンのパフォーマンスが鮮烈な印象を与えた。同展は東京の世田谷美術館ほか2会場に巡回し、この年には広島での大規模なアジア美術展「アジアの創造力」や国際交流基金によるシンポジウムも開かれ「アジア美術ブーム」と言われた。
福岡市美術館でも、当初は国際交流活動として位置づけられていたアジア美術展を主要事業とするようになり、1987年からは毎年アジア作家の個展「アジア現代作家シリーズ」を開催した。4回のアジア美術展や10回の個展の出品作品などから収集された作品は、1999年に開館した福岡アジア美術館に移管され、そのコレクションの基礎となった。
アジア現代美術展(1980年) インドネシアコーナー 彫刻はグレゴリウス・シッダルタ「女神の誕生」
アジア現代美術展(1980年) シンポジウム
第2回アジア美術展(1985年) 特別部門「バリの美術」
第2回アジア美術展(1985年) 中央=アピナン・ポシャナンダ(アピナン・ポーサヤーナン)作品《モナリザの変容》
第3回アジア美術展(1989年) 版画ワークショップ 手前は吉田穂高
第4回アジア美術展(1994年) 国別にかわるテーマ展示 左=ナウィン・ラワンチャイクン作品 床=ダダン・クリスタント作品 右=エルマー・ボルロンガン作品
第4回アジア美術展(1994年) ヘリ・ドノのパフォーマンス